天平和尚は後に住職となり、「ワシは若い頃、西院和尚にイキナリ二度「ちがう、そうじゃない!」と言われ、さらには「ワシのところで「ちがう」について考えてみよう」と言われたが、「間違っているのはオマエの方」と思って相手にしなかった。その後、いくら探し回ってもなかなか理想の名師に出会えないのは何故なのか深く考えてみた時、間違っていたのはワシの方であったことを思い知った」と弟子たちに告白したわけなのですが、これについても最近の連中は「これはアレだね、その後あちこちの師匠に話を聞いても結局どれもピンとこなかったということを言っているんだよね。「真実の道」は誰かに教えてもらうようなものじゃないわけだから、理想の師匠を探すこと自体が「無駄足」だったということだよね。」などと理解しがちですが、その程度の理解では世界はおろか、自分すらも救うことはできないでしょう。
雪竇和尚は、このエピソードに対して次のようなポエムを詠みました。
「禅」愛好家には軽薄者多数。
あれこれ知識を詰め込んで、結局まるで役立たず。
天平和尚もザンネンさん。
いくら探し回ってもなかなか理想の名師に出会えないだなんて。
ちがう、そうじゃない! ちがう、そうじゃない!
さて、ワシの「ちがう」と天平和尚の「ちがう」のどちらがより「そうじゃない」でしょうかね?
法演和尚は言いました。
「最近の連中の禅修行は、ガラス瓶の中で餅を蒸すようなもんだな。
できあがっても直接取り出せず、振っても出てこない。
強く叩けば砕けてガラス交じりの餅になってしまって食べられない・・・
どうせやるなら、竹や柳の枝のようにしなやかな素材の器に入れないと。
そうすれば取り出しやすいし、高いところから落としても壊れないし。」
つまり雪竇和尚は、「折角それほど詰め込んだ禅を、なぜ世のため人のために役立てないのか」ということを残念がっているんですよね。
・・・おっと、これ以上のネタバレはやめておきましょう。
ヤング天平和尚は、「西院和尚の意図が理解できなかった」のが違うのでしょうか?
それとも「最後まで言い返せなかった」のが違うのでしょうか?
ここまで読まれた皆さんならおわかりと思いますが、それはどちらも全然「ちがう、そうじゃない!」のです。
達人が「伝説の剣」を揮う時、斬られた人は声もたてずに即死します。
でも、もしもその刃の上を歩いて行けたなら、その人はもう天下無敵です。
この2つの「ちがう、そうじゃない!」の真意を会得した時、貴方はそれまでずっと吹き荒れていた風がピタリと止むのを感じることでしょう。
雪竇和尚は上述のポエムを弟子たちの前で詠みあげたあと、しばらく間を取ってから改めて「ちがう、そうじゃない!」と言いました。
賢明なる読者の皆さん、この最後の「ちがう、そうじゃない!」は、天平和尚の「ちがう、そうじゃない!」と同じでしょうか? それとも「ちがう」ものでしょうか?
今から30年修行した上で、答えをお聞かせくださいませ。
<ちがう、そうじゃない。 完>
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