雲巌和尚はいつも先輩の道吾和尚と一緒に行動し、疑問に思うことがあれば何でも道吾和尚に相談していました。
で、ある時「千手観音は千本の眼のついた手で何をしようというのか?」と尋ねたわけですが、実は、これは禅の世界においてはいきなり棒で叩かれても仕方のない質問なのです。
本来、道吾和尚もそうすべきだったのですが、彼は優しい人でしたので、ちゃんと言葉で答えました。
「真夜中に寝ながら手探りで枕の位置を直すようなものだ」、と。
真夜中、辺りが真っ暗で何も見えない時、手探りで枕の位置を直す。
さて、その時「眼」はどこにあるのでしょうか?
雲巌和尚は「わかりました。身体中が眼なのですね!」と答えましたが、道吾和尚は「その答えでは八十点だ。全身が眼なのだ。」と言いました。
賢明なる読者の皆さん、「身体中」と「全身」の違いがおわかりになりますでしょうか?
今どきの人たちは「そりゃ「身体中」じゃダメさ。「全身」でないと!」などとわかったようなことを言いますが、これでは単に昔の人の言葉を受け売りしているだけです。
こういう人のことを禅では「死人」と呼びます。
ただひたすらに昔の人の言葉をなぞり、「この公案が解けたら修行は完成だ!」と口走りながら身体中を手探りし、勢い余って道端の街灯のポールも手探りし、「これこそ「全身」だ!」などと言い出す始末・・・
かつて曹山和尚が弟子に向かって「水を入れた器に月が映るように、あらゆる物の上に姿を表す・・・ ワシがいったい何のことを言っているかわかるかな?」と尋ねたことがあります。
弟子が「ロバが井戸を見るようなことでしょうか?」と答えたところ、曹山和尚は「悪くないがそれでは八十点だ。井戸がロバを見ているんだよ。」と言ったとか。
冒頭のエピソードは、つまりこれと同じことです。
言葉にだけ注目していたのでは、いつまでたっても道吾和尚や雲巌和尚の仕掛けたワナから脱出できません。
―――――つづく
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