究極の道は難しくない 3/5話(出典:碧巌録第二則「趙州至道無難」)

さて、この僧はさらに「知らないならなぜ「明らかというのも違う」などと仰るのですか?」とツッコみましたが、趙州和尚に「それはいい質問だ! お辞儀したら帰りなさい。」と返されて、グウの音も出ませんでした。

趙州和尚は熟練の禅師ですが決して小難しい理論を振りかざしたりせず、いつも日常使われている言葉で根本的なことをズバリと言うだけでした。

それが彼の芸風であり、それによって彼は無敵を誇ったのです。

近頃の人はそれがわからないので、「趙州和尚はちゃんと質問に答えていないよね。弟子を教え導こうとする気持ちがないんだね、きっと!」などと言い出す始末・・・

雪竇和尚はこのエピソードに対して次のようなポエムを詠みました。

究極の道は難しくない。
言葉の端々に究極の道への門が開いているではないか。

真実はひとつだが、そこから多種多様なものごとが現れてくる。
そしてそれらの多種多様なものごとは、全て別のものではないのだ。

太陽が天高く登るとき、月は見えなくなってしまう。
手すりの向こうは深い山、冷たい水が流れている。

道端に転がっているドクロに喜怒哀楽などあるわけがないが、龍の形に見える枯れ木は風に吠える。

さぁ困った!

「こだわり」か「明らか」か、自分で答えを出すしかあるまい。

論語に「一隅を挙げてこれに示し、三隅をもってかえらざれば、則ちまたせざるなり」という言葉がありますが、「究極の道は難しくない。言葉の端々に究極の道への門が開いているではないか。」というのはつまり、一隅を挙げて三隅をかえさないのと同じです。

また、「真実はひとつだが、そこから多種多様なものごとが現れてくる。そしてそれらの多種多様なものごとは、全て別のものではないのだ。」というのは、三隅ををもって一隅にかえすのと同じです。

・・・私はいったい何の話をしているのでしょうか?

もしも貴方がこの二つの句の真意を見抜くことができなたなら、貴方はもはや「打成一片(だじょういっぺん)」の人です。

主観と客観が完全に一致し、一切のものごとに通じる真実に目覚めた「打成一片」の人にとっては、山は山のままに見え、水は水のままに見え、長いものは長く、短いものは短く、天は天に、地は地に見えます。

そしてまたある時は、地を天と呼び、山を山ではないと言い、水を水ではないと言いはります。

風が吹けば木々は揺れ動き、波がおこれば船は上下し、春になれば穀物が芽生え、夏には育ち、秋には収穫の、冬には貯蔵の時期を迎えます。

アタリマエのことをしっかりとアタリマエに受け止めることができたなら、まさに平穏無事。

様々な障害物は全てあとかたもなく消え去ります。

―――――つづく

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