雪竇和尚はお得意のポエムでビシッと決めたつもりなのでしょうが、弟子の私から見ればかえって余計なことを説明しすぎているように思えます。
「究極の道は難しくない。言葉の端々に究極の道への門が開いているではないか。真実はひとつだが、そこから多種多様なものごとが現れてくる。そしてそれらの多種多様なものごとは、全て別のものではないのだ。」などと仰いますが、わざわざそんなことを考えなくたって、「太陽が天高く登るとき、月は見えなく」なりますし、「手すりの向こうの深い山」には「冷たい水が流れている」という事実に変わりはないのです。
「言葉の端々」だけでなく、あれもこれもどれもそれも、みなそれぞれが「究極の道」であり、全てが真実なのです。
・・・これってもはや「主観と客観が完全に一致し、一切のものごとに通じる真実に目覚めた「打成一片」」の境地ですよね?
雪竇和尚、ポエムの始めの方こそシュールな切れ味がありますが、後半はもうグダグダです。
その辺りのことをズバリと見通すことができた時、貴方はきっと極上のご馳走を口にしたような気持になるでしょう。
逆にあくまでも理屈で考えようとするならば、ただ総花的になるだけで、いつまでたっても真実を知ることはできません。
「道端に転がっているドクロに喜怒哀楽などあるわけがないが、龍の形に見える枯れ木は風に吠える」とはまた、なんともドキリとさせられる言葉です。
僧は「知らないならなぜ「明らかというのも違う」などと仰るのですか?」と質問し、趙州和尚は「それはいい質問だ! お辞儀したら帰りなさい。」答えました。
まさしくここに究極の道があるのですが、今どきの人ときたら言葉に囚われてあれこれと理屈をこねるばかり・・・
とある僧と香厳(きょうげん)和尚の会話です。
僧:「究極の道とは、いったいどんなものなのでしょうか?」
厳:「龍の形に見える枯れ木が風に吠えるようなもんだな!」
僧:「それでは究極の道を行く人とは、いったいどんなものなのでしょうか?」
厳:「道端に転がっているドクロの眼球のようなもんだな!」
―――――つづく
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