究極の道は難しくない 5/5話(出典:碧巌録第二則「趙州至道無難」)

この僧は後日、石霜和尚に質問しています。

僧:「龍の形に見える枯れ木が風に吠えるというのは、いったいどういうことなのでしょうか?」
霜:「枯れ木になってもなお、喜ぶ気持ちが残っているのだな。」

僧:「道端に転がっているドクロの眼球というのは、いったいどんなものなのでしょうか?」
霜:「ドクロになってもなお、意識が残っているのだな。」

この僧はさらに、曹山和尚にも質問しました。

僧:「龍の形に見える枯れ木が風に吠えるというのは、いったいどういうことなのでしょうか?」
山:「ほう、枯れ木になってもなお血が通っておるとは、なかなかしぶといのう!」

僧:「道端に転がっているドクロの眼球というのは、いったいどんなものなのでしょうか?」
山:「ほう、ドクロになってもなお乾ききらず、ギロリと眼をむくとは!」

僧:「・・・枯れ木の吠える音は、いったいどうやったら聞けるのでしょうか?」
山:「この世でそれを聞いたことがないヤツなど一人もおらんよ!」

僧:「すみません、降参です・・・「龍の形に見える枯れ木」とはいったいなんの比喩なのでしょうか?」
山:「そんなもん、ワシも知らんよ。(笑) ただ、その音を聞いたものはみんな死ぬのだ!」

雪竇和尚は、これらの問答を踏まえ、さらに以下のようなポエムを詠みました。

龍形の枯れ木の咆哮に究極の道を見ろ!

ドクロになり、かつ意識もなくなった時、初めて眼は真実をハッキリと見ることができるようになるのだ!

喜ぶ気持ちがなくなった時、もはやそこには何のこだわりも存在しない。
こだわらないことへのこだわりすら、そこにはないのだ!

百丈和尚はかつて「一切の言葉や山河大地を、全て自分ごととせよ!」と説かれましたが、雪竇和尚の一挙手一投足は、まさしく全てを自分ごととしてのものでした。

なんだかんだで雪竇和尚は結構親切に答えを教えてくれているような気もしますが、それでも最後に「「こだわり」か「明らか」か、自分で答えを出すしかあるまい。」と詠まれました。

読者の皆さん、あるいはお気づきでないかも知れませんので念のためコメントさせていただきますが、ここでいうところの「自分」とは、実は貴方のことなのです。

貴方、実にラッキーですね! 雪竇和尚じきじきのご指名を受けられるなんて。w

さぁ、いますぐ答えを言ってみてください!

え? そんなことわからないですって?

まぁ、確かにそんなこと誰にもわからないでしょうし、実は私もわからないので、ここはひとつ、お辞儀をして失礼することとさせていただきます。

<究極の道は難しくない 完>

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