黒沢秀樹の育児ノート「絵本地獄で思うこと」

先日のライブ映像配信ではたくさんの方に視聴していただき、その中の多くの方からweb上での投げ銭という支援を頂くことが出来た。資料用に録ってもらっていたほとんど何も手を加えていないものにも関わらず、支援をしてくれた方々には絶叫で感謝を叫びたい気持ちである。
維持するだけでコストがかかるにもかかわらず、営業が出来なくなっている会場やスタッフに少しでも売り上げを生み出せた事は大変にありがたい事である。

考えてみれば育児中のみなさんは毎日が緊急事態、ライブに出かけることはそもそも難しい。
実際に会場で感じるものとは程遠いとは思うが、そんな子育て中のみなさんに少しでも雰囲気を感じて楽しんでもらえたならとてもうれしい。

このノートも本当は今頃発表していたはずのコラボレーション楽曲「とんでいく」企画の一環だったわけだが、残念ながらイベントは延期になり、レコーディングも中断したままである。そのおかげでこうして今も連載を続けることになったわけだが、このことは自分にとってもやはり何か特別な縁を感じている。

ひとまず風木一人さんの絵本「とんでいく」は無事に(多くの書店が営業自粛という状況ではあったけれど)発売され、現在通販でも手に入れる事が出来るので是非手にとっていただけたらと思う。
この本のすごいところは、前からも後ろからも読むことが出来て、そのキャラクターが真逆でありながらもしっかりとリンクしているというところで、コンセプトやアイデアだけでは辿り着けない領域にある素晴らしい本だと感じている。

『とんでいく』風木一人・作 岡崎立・絵 福音館書店

【amazonで見る】

絵本の読み聞かせは育児の中でもスタンダードな儀式のようなもののひとつだが、これが始まると費やす時間と労力はなかなかのものになってくる。
ちなみにこのノートを書いている日は、15冊の絵本を次から次に持って来てはこれを読めと促される絵本地獄であった。
そんな永遠に続くかと思えた絵本ループの中で、ふと思ったことがあった。絵本というのは子供にとっていったいどんなものなのだろうか。

先日web会議アプリで話した友人に言われたことが頭に残っていた。
「子供がいる人、子供がいない人、好きな人、嫌いな人もいるけれど、子供じゃなかった人はひとりもいない」。確かにそうである。
また、ある友人は育児について「忘れてしまった自分の子供時代を、もう一度一緒に思い出せる機会だ」と言っていた。

自分は子供の頃、絵本をどんな風に感じていたのだろうか。
振り返ってみると確かにお気に入りの絵本が何冊かあり、それは今でもスタンダードな作品として書店に並び、世代を超えて受け継がれている。
そして思ったことは、様々な書籍が電子化されている中、子供向けの絵本というジャンルだけはなかなかデジタルに変換できない要素があるということだ。

まずは絵本のライブラリが子供の目の前にある場合、その物質的な大きさや質感、そして開くページのランダムさが子供の興味を引き、様々な感覚や思考を育むのにとても適しているように思う。
小さな絵本と大きな絵本では視覚的なイメージや重さが全く違うし、それ自体がどのような本なのかを認識する大きな要素のひとつになっている。
自分の子供の場合は、やはり大きさや色でその時に見たい本を選んでいるようだ。
まずは乗り物や動物がメインの小さな絵本、そしてもう少し大きなシンプルなストーリーがある絵本、さらに大きなインパクトのある絵が描かれている本。そのどれもがとても新鮮なのだ。
そして小さな子供は適当に本を開くので、どのページが出てくるのかが予想できない。
スマートフォンやタブレットではその大きさや気まぐれな感覚に対応するのはなかなか難しい。

例えば風木一人さんの作品「たまごがあるよ」を読んでいると、子供はある時バラバラだった絵と言葉に何らかの相関性がある事に気がつく。この絵はこういうものだ、ということに気がつき、さらにその連続したストーリーも理解するようになっていく。

「たまごがあるよ」風木一人・作 たかしまてつを・絵 角川書店

【amazonで見る】

「たまごがあるよ」はいろんな色や大きさの鳥がいること、そして鳥は卵から生まれるということに加え、絵本の中の卵を「とんとん」することよって様々な鳥が生まれるというフィジカルな遊びの要素が入った流れになっている。
最初はただ眺めていただけの子供が、卵から鳥が生まれることを知ると、それを期待して「とんとん」するようになる。ある一定の法則によって結果が生まれるということを認知することになるのである。
さらにその行動から子供の個性がどのようなものであるか、養育者もふんわり理解することが出来るようになってくるのだ。

自分の子供の場合はちょっとせっかちなところがあって、慣れてくると持ってきて開けたとたんに待ちきれずにページをめくり、「とんとん」の場面を叩きまくる。なにはともあれ、とにかくひたすらすぐに「とんとん」がしたいのである。もはや「とんとん」というよりも「バシバシ」という感じだが、どうやらそれが楽しいらしい。
そしてすぐに飽きる。飽きると次の絵本をまた持ってきて、これを読めと促す。その絵本の楽しさのピークの部分を最速で探し出し、満足したらまたすぐに他の絵本を持ってくるわけだが、こうなるとなかなかお話の最後まで辿り着けないことが多い。
自分も作品を作る立場の人間としては、どんなにこだわって流れを作った曲でも、サビしか聴いてもらえないような少々さみしい気持ちにもなるが、だいたい「いい曲」と言ってもらえる曲はそういうものなので仕方がない。
いつかその作品の全体像を把握した時に、そのこだわりや素晴らしさを感じてもらえるようになって欲しいものである。

話は戻るが、「とんでいく」を読んで数年ぶりに思い出したレコードがある。
スパンキー&アワー・ギャングというグループが1968年にリリースした「Without Rhyme Or Reason」というアルバムだ。圧倒的な演奏力と緻密に計算されたコーラスワーク、もはやジャンルがわからないほどにテクニカルでありながら、しっかりとコンセプトを体現している素晴らしい作品だ。
このアルバムはその当時のアナログレコードの「A面」「B面」という考え方をなくし、「side 1」と「side A」というどちらから聴いても成立するというコンセプトによって作られている。デジタル化されてしまったことでこの画期的な発想は失われてしまったが、これは自分にとって衝撃的な1枚だった。もう一度レコードで聴きたいと思うも、今手元に見つけられなくて悶々としているが、やはり自分の好きな本と音楽には通ずる部分があるような気がしている。

(by 黒沢秀樹)

※みなさんからの子育ておもしろ体験談も引き続き募集中です!こちらまで!