おんぶについての考察

ちょっと前に「抱っこ紐」を紐解き過ぎて自分がどこに向かおうとしているのかわからなくなりそうになったが、離乳食同様、おんぶと抱っこには社会的、文化的な背景が密接に関係していることがわかり、それはそれでとても勉強になった。

そして今、自分は「おんぶ」について改めて見直す機会を得ることが出来た。子守唄と割烹着と共に消えてしまいつつある「おんぶ」。
自分は「おんぶで育ち、抱っこで育てる」という日本の育児の歴史の中でかなり貴重な時代を生きているハイブリッド世代であることを考えると、このことについてもう少し知りたいという気持ちを抑える事が出来ずあれこれ調べている中で、「おんぶの再評価」の動きがあることを知った。
そしていま、「子どもの視点でものを見る」と言うことをあらためて実践しているところである。

子どもの視野はもちろん大人よりずっと低く狭いはずなので、物事の見え方に違いがあるのは当然である。
よく見かける光景は、養育者がしゃがみこんで子どもの目や仕草を見ながらその真意を探ると言うものだが、もうひとつ大切なことがある。それは目と目で見つめ合うことよりも以前にある子どもと養育者の「視線」なのだ。

ある時ベビーカーに子どもを乗せてスーパーに行った時のことである。急に「アンマン!」と子どもが言い出した(アンマンとはアンパンマンのことです)。しかし、その姿はどこにも見当たらない。「アンマンどこにもいないでしょう?」としばらく進んでいくと、遥か遠くの靴売り場の子ども用の靴に、確かにアンパンマンの模様がついているものがあったのだ。
お前はマサイ族か!と思わず心の中で思ったが、それくらい子どもの視線は興味の対象には敏感なのである。
そしてこの「同じ視線でものを見る」と言う事に関して言えば、「おんぶ」と言うのは非常に適切な役割を果たしている事になる。子どもと同じ「視線」でものを見る事が、育児にどんな影響をもたらすのか。そんなことを抱っこ紐で育児をしている自分は考えもしなかった。
そして今、スーパーで菓子パンコーナーにある「アンパンマンスティック」(パンです)を共に見つけ、それについてのコミュニケーションを言語を介さずともある程度出来るということになったのである。

共視論 北山修 講談社選書メチエ

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ことのきっかけは偶然知った「共視論」(北山修・編 講談社選書メチエ)という本だった。
ざっくり説明するなら、この本は日本独特の「浮世絵」と言う大衆文化の中に見える母子像の、親と子供の視線やその構図などから同じものや方向を共に眺める「共視」と言う概念を中心に置き、それを各方面の専門家があらゆる角度から分析、研究したものだ。
「浮世絵」と「母子」と「心理学」という一見全く関係のなさそうなものに光をあて、そこに母子関係をはじめとする様々な大衆文化、芸術までへの考察と検証がなされるまさに縦横無尽で濃密な情報の蓄積と展開に、正直、自分は圧倒されてしまった。

思えば自分は幼少期にはきっとおんぶで育っているわけだが、その時に自分はどんな気持ちだったのか、もし今のような高機能な抱っこ紐で育てられていた場合とどのような違いがあったのか、そして日本独特の育児方法であった「おんぶ」が生み出す「共視」が子どもの認知や行動に与える影響がどのようなものであったのかを考えると、実に感慨深いものがある。
せっかくなので、もう少しこの事について考えてみたいと思う。

ちなみに今日は息子が「ターリ」「ティーウ」とテーブルを叩くので、横に並んで共に視線を向けると、冷蔵庫の中に入っているベビーチーズのおかわりをよこせ、という意味を汲み取ることが出来た。しばしこのような事について実践に基づいた検証を重ねてみようと思っている。

(by 黒沢秀樹)


※編集部より:全部のお便りを黒沢秀樹さんが読んでいらっしゃいます。連載のご感想、黒沢さんへの応援メッセージなど何でもお寄せください。<コメントフォーム