あの素晴らしいおんぶをもう一度

前回は偶然出会った「共視論」という本をきっかけに、近年では「抱っこ紐」の台頭によって失われつつある日本独自の「おんぶ」という文化が、養育者と子どもが同じ視線で対象を見る「共視」というものに非常に適した方法であり、再評価の動きもあることに触れてみた。

自分は息子を主に抱っこ紐で育てて来たわけだが、2歳にもなるとそろそろフル装備でライブツアーに出かけるためのギターケースと同じくらいの重さになりつつあるので、ほとんどおんぶは経験せず、抱っこ紐もそう遠くない時期に使わなくなるだろう。

自分はこの事について知ったのが遅かったため、今までおんぶでの子育てをする機会がなかったことが少々残念でもある。しかし、これを知ったことで子どもと同じ方向を向いて同じものを眺める、という事をなにかと最近気にかけるようになった。
走っていく電車を眺めること、公園の花や虫を見ること、散歩をする犬や通り過ぎる猫、画面に映るアンパンマンや機関車トーマスを見て一緒に追いかけること。
これらは一応対象を同じ視線で見るという事にはなるだろうし、今まで漠然とやっていた、視線を共有することの大切さを論理的にも理解出来るようになったということでもある。
これは父として2歳になったばかりの自分にとっても大きな進歩であるが、そう考えると絵本の読み聞かせというのは、子どもと養育者とのフィジカルな一体感と共同注視という点ではおんぶに勝るとも劣らない素晴らしい育児文化であるとあらためて思う。

発達心理学というジャンルでは、自分以外の他者と一緒に何かを眺めることをジョイント・アテンション、日本語では「共同注視」または「共同注意」と呼ぶそうだが、これが子どもに起こる時期は非常に大きなターニングポイントであるらしい。共同注視は、それまでの養育者と子どもだけの世界から、他の何らかの対象を経由してなされるコミニュケーションが生まれる最初の瞬間なのである。
抱っこでは養育者と対面する事になるため(抱っこ紐にも外向き抱っこという形はあるが)子どもが何を見ているかを把握できるという安心感がある一方で、おんぶはその一体感と視線の向けられる範囲においてはより適している形と言えるだろう。
おんぶされている子どもは養育者と同じ方向に何かを見て声を出したり、手を差し出したり、もちろん泣いたりするわけだが、その段階ではまだ自分にとってその対象がどういう意味を持っているのかはわからない。
バナナはおいしい果物だとか、出来たてのご飯は熱い、氷は冷たい、というようなことは、主に養育者の行動からのインプットによって子どもにとって意味のあるものとして認識される。
そう考えると、この時期に養育者の持っている感覚が子供の認知に深く関わってくる事は間違いないだろう。
ということは、自分が稀にキッチンに出没する素早く動く黒いヤツについてとってしまう過剰な反応などはあまり好ましいことではない。息子にはあんな小さな奴が出る度に大騒ぎをするような大人にはなって欲しくはないし、もっとスマートな対応の方法はいくらでもあるはずだ。
しかし、ある日小さな黒いヤツがキッチンに出没し、自分がすごい勢いでスプレーを持って闘いを挑んだ場面で、振り返ると息子が丸めたカレンダーの筒を持って参戦しようとしていたことがあった。すでに息子はヤツが自分たちにとって敵であることを認知しているのだ。なんと心強い、素晴らしい子だとその時は思ったが、これは明らかに養育者の認知の偏りが子どもの行動に影響を及ぼした例である。

その後の発育過程で子どもは養育者と離れ、ひとりで行動が出来るようになる。ハイハイを始め、立ち上がり、自らの足で歩き出す。そして「言葉」を覚えて行く事によってコミュニケーションの方法に劇的な進歩が生まれる。しかしこの時点では子供はまだ言葉を話せないので、もっとプリミティブな前言語的コミュニケーションが行われているのである。

子どもはまず大前提として母親と一体化している。妊娠中はお腹のなかにいるのだからこれは当然のことだが、その後もほとんどの子どもは生まれてしばらくは離れることなく、母子は限りなく一体化している。
そして身体の発育と共に徐々に養育者から離れてそれぞれが別の人間であることを認識するようになり、その後ようやく向き合って「対峙する」関係になり得るわけだが、このプロセスが子どものその後の人生に大きな影響を与えるらしい。

自立して大人になる、ということは、親から独立した自我を持つこととも言えるが、そもそも「離れる」ためには「同じ場所にいる」ということが大前提になってくる。
一緒にいるからこそ、離れられるのである。
僕が感銘を受けた本、「共視論」の編者である北山修さんという方は、精神科医でありながらミュージシャンであり、きっと誰もが知っているであろう名曲「あの素晴らしい愛をもう一度」の作者でもある。
この本の中でも触れられているが、この詩はまさに、親子が自立して離れていく過程には、そもそも根源的な「一体感」が必要である、ということを逆説的なテーマとして持っていると自分は感じている。

あのとき 同じ花を見て 美しいといった
ふたりの 心と心が 今はもうかよわない
あの素晴らしい愛をもう一度

一体であった母子が二つの体に分かれ、しばし一心同体となって過ごす時期を経て、初めて自立への過程に進むというストーリーがこの曲の中にはあるのではなかろうか。
聴く人にどこかせつなく懐かしい感覚を呼び起こし、それでいて「心が通わなくなる」ことへのネガティブなイメージを感じさせないのは、日本的な旧き善き育児文化を象徴しているようでもある。
「あの素晴らしい愛」にもう一度出会える瞬間があるとするならば、それはきっとこの歌の主人公が子を育てる養育者になった時なのである。

この大名曲とは比較にならないが、自分の作った曲の中にも無意識にそういうテーマが底辺に流れているものもあるかもしれない。
ちなみに自分は今「note」というwebプラットフォームでの活動を模索している最中なので、そちらでも近々自分の過去の作品について考察してみようと思っている。
【 黒沢秀樹の note 】

(by 黒沢秀樹)


※編集部より:全部のお便りを黒沢秀樹さんが読んでいらっしゃいます。連載のご感想、黒沢さんへの応援メッセージなど何でもお寄せください。<コメントフォーム