2歳を過ぎた息子は言葉を話し始めてコミュニケーションの幅が大幅に広がってきているが、まだ何を言っているのかさっぱりわからないことも多い。
言いたい言葉がうまく発音出来ないので聞き取れないからだが、そんな時は物や絵本などを指差して話しているのを見ながらなんとなく言っていることを想像するという、さながら連想ゲームのような日々を続けている。その結果発見した、新しい息子の発語を記録しておこうと思う。
「写真」
ある時、食器棚の上を指差して「しゃー、しゃーん」と言うも、そこには何も食べ物らしきものはない。何を要求しているのかと思いきや、手の届かない所に置いてあった一眼のデジタルカメラのことだった。「しゃー」は「写真」だったのである。「カメラ」と言うのならなんとなくわかるが、カメラを指して「写真」と言うとは思っていなかったので、これは想像をちょっと超えてきた瞬間だ。
「カメラ」と言わずに「写真」という言葉を使えるということは、この機械が写真を撮るものであることを理解しているのだろう。
そして電源のスイッチを入れると、自分の顔より大きなカメラを構えて写真を撮ろうとする。ここでも大人の動作を記憶して真似しようとしているのだ。
シャッターの位置があやふやなのであらゆるスイッチを押しまくり、偶然写真が撮れたりよくわからない設定画面が映し出されたりしているが、データを開いてみると風呂上がりに着替えをさせようと迫る上半身裸の自分が写っていたりした。この先どんな作品が生まれるのか期待したい。
「渋滞」
今年の夏はクルマに子どもを乗せていろんなところに行った。たぶん今までの自分の人生で、こんなにあちこちに出かけた夏はないと思う。今年は特に公共の交通機関を避ける人たちが多いためか、週末は大渋滞に巻き込まれて散々な思いをしたが、今まで通勤ラッシュや休日の渋滞などを可能な限り避け続けて生きてきた自分にとって、多くの人たちが休日にどんなに大変な思いをしているのかを痛感することになった。
その移動中、運転しながら自分が「渋滞」という言葉をよく使っていたらしい。
ある時、子どもが「じゅーたい」と言い始めたのである。
最初は何を言っているのかわからなかったので、「え?ジュースは今日はないよ」などととんちんかんなやりとりをしていたが、それが「渋滞」であることを知った時は驚きであった。まだ消防車やパトカーのことも「うーうー」で片付けている子どもが、突然「渋滞」と言うなんて思っていなかったからだ。
それからというもの、横断歩道で立ち止まるたびに「じゅーたい、じゅーたい」というようになり、抱っこ紐で歩いている途中でも混み合った道路を見ると「じゅーたい!」と大きな声で叫び、挙句、家に帰ってからテーブルの上にミニカーを並べて「じゅーたい!」と言いながら渋滞を再現し始めた。どうやら渋滞をなにかお祭りのようなものだと思っているらしい。
都心の幹線道路はほぼ常に渋滞しているので、息子の日常は日々お祭りのような状態だとも言えるが、そう考えるとお祭りもほとんどが中止になってしまった今年も楽しく過ごす事が出来る息子の想像力を見習うべきだと思う。
「半分」
最近「はんぶん」とよく言うのだが、これは今のところ本来の意味ではなく、何か食べたいものがある場合のおねだりとして使われる。冷蔵庫に見えないようにしまったはずのフルーツを何かしらの超能力で探し当てられ、それを一刻の猶予も許さず今すぐ食べるとせがまれた時などに、「ごはん時にもう食べたから、ぶどうは明日の朝にしようね」などと答えると、決意に満ちた表情とともに「はんぶん!」と言うのである。
これはきっと同じような状況で何度か絶叫された後に仕方なく「じゃあ、半分だけ食べようね、半分でおしまいだよ」と言って譲歩してしまったことがきっかけだと思われる。「はんぶん」は交渉の駆け引きの手段として利用されているのだ。
この「はんぶんテロ」に対する譲歩の実績を作ってしまうと「はんぶん」という言葉は有効な手段として認識されてしまい、さらなる攻撃を仕掛けてくることは間違いない。交渉や譲歩の余地を与えてはいけなかったのだ。しかし、はんぶんと言われるとつい食べさせてしまう養育者の心理を見事に突いた作戦である。自分もこのくらいの交渉力を身につけたいものである。
子どもの発語は思わぬところでスポンジのように吸収され、日々インストールとアップデートを繰り返しながら進んでいくが、時折養育者にも想像出来ないような使い方を発明する事を実感している。
うっかり自分の口から出た言葉がどんな使われ方をするのか、そこには養育者の立ち振る舞いが大きく影響するはずである。渋滞をお祭りのように楽しめた記憶はないが、もし自分が運転中にイライラして大声で文句を言い続けたりしていたら、きっと子どもも同じような反応をし、クルマに乗るのが嫌いになってしまうことだろう。若い頃は運転しながらずいぶんイライラしていたように思うが、最近はそういう事もあまりなくなった。これも育児によって自分が成長したという事なのかもしれない。
(by 黒沢秀樹)