「しまうっ」

片付けるのは楽しい?

ある時、2歳半になろうとする息子は宅配便に入っていた梱包材(空気の入った小さなビニール袋がつながっているもの)を見つけると、それを電車に見立てて引っ張りながら「シューシュッポッポー」と言いながら家の中を走りはじめた。
梱包材を電車に見立てるという想像力もなかなかのものだと思い、そのごっこあそびに付き合うかたちで自分も「出発ー、シュッポッポー」などと言いながら狭いキッチンを走り回っていたのだが、ひとしきり遊ぶと今度は息子がダンボール箱にその梱包材をせっせと入れはじめた。
どうしたのかとその様子を見ていると、予想外のことが起きた。まるで何かに宣誓でもするような表情で「しまうっ!」と言ったのである。

これまで自分は片付けなさいとも、しまいなさいとも一言も発していない。これには正直驚いた。
「すごい!しまえるの?えらい」などとひとしきり褒めると、息子はちょっとだけドヤ顔をしている。こんなかたちで小さな子どもが自発的に片付けを始めることを全く想像していなかった自分は、しばし啞然としてしまった。「片付けなさい」と言わなくても子どもは片付けをするのである(たまにだけど)。

これは少し前に書いた大人の模倣をして遊ぶ中で、自分の記憶から行動を再現できる「延滞模倣」がさらに発展したものだと言えるだろう。
自分の幼少期のことを思い出すと「片付ける」という言葉はほぼ叱られることとセットになっていて、「片付けなさい」と言われるとあんまりいい気持ちにはならなかったことは確かだ。
大人になってからも「片付ける」ことに対するイメージは「スッキリして気持ちが良くなる」や「大切なものがどこにあるかわかりやすくなる」という現実的な効果よりも、なんとなく「面倒でイヤな事」というイメージの方が強く残っていたような気もする。

ところが今、目の前の子どもは片付けのことなどひとことも言っていないにもかかわらず、自ら「しまう」と言っておもちゃを片付けている。
これを子どもの目線で考えてみると、きっと片付けるという行為がどちらかというと楽しい部類のものに入っているのではないかと想像出来る。
ここでもまた、思い込んでいた自分のイメージの解体と再構築が行われることになった。
子どもにとって「しまう」は楽しいことだと解釈することが出来るのである。

「ねば」や「べき」は手段に過ぎない

変化はさらに続く。子どもをお風呂に入れた後に着替えをさせようとした時のことである。子どもの服はすぐに小さくなって着られなくなってしまうが、だからと言って値段がそのぶん安いわけではない。そこで強い味方になるのが「お下がり」である。
息子のワードローブはかなりの量が育児の先輩である知人友人から提供してもらったお下がりによって成り立っているわけだが、中にはかなり着古してほつれた糸が出ているようなものもある。子どもにとってはそういう服の方が着心地が良かったりすることもあるので捨てるに捨てられない。
そんなお下がりのパジャマのズボンをはかせようとしていたときに、子どもがほつれて出ている糸に気が付き、引っ張り始めた。そしてしばらく引っ張り出すと「ちょっきん、ちょっきん」と言いはじめたのだ。

爪や髪を切るときに大人が「ちょっきん」と言っていたことはあるが、どうやらこの糸を切れと言っているようだ。仕方なく手で糸を切ろうとすると、おもむろに膝の上から抜け出し子どものあれこれがしまってある引き出しを開け、その中に入っているポーチを持ち出して中から爪切り用のハサミを取り出した。そしてまた膝の上に座り、ハサミを自分の手に持たせて「ちょっきん」と言ったのだ。

この一連の行動は大人にとっては当たり前だが、小さな子どもにとっては大きな変化だ。
なにしろ、「糸を引っ張る」「ちょっきんと言う」「ハサミを認識する」「引き出しを開ける」「ハサミを取り出して渡す」というそれぞれの行動が、「パジャマの糸をハサミで切ってもらう」というミッションを遂行する目的のために統合されているのである。
この原稿を書くためにメガネを取りに行ったはずが気がついたら歯を磨いていたりする最近の自分よりも余程行動に整合性があるかもしれない。
糸を切って渡すと、納得したのか息子はハサミをポーチの中に入れて引き出しの中に戻し「しまうっ」(ドヤ顔)と言って一連のミッションを終了し、また部屋を散らかす作業に取りかかった。

育児は大人の考える凝り固まった「ねば」や「べき」を子どもの目線で解体していくことでもある、と前回書いたが、同時に片付け「ねば」や、片付ける「べき」がなぜそんなに強力な呪いの力を持つのかを考えることにもなった。
それは育児だけにかかわらず、様々な効率を考えたときに望ましい状況が得られる手段として機能してきたからではないだろうか。

当然だが、「ねば」や「べき」はその手段に過ぎないということである。養育者が「ねば」や「べき」に固執するあまりイライラしたり誰も知らない遠い国に行きたくなってしまうのは、手段に振り回されて目的を見失ってしまうからであり、これは単なる思考の誤動作である。手段は目的のために存在するわけで、目的を遂行するために必要であれば他のオリジナルな新しい選択肢をとっても良いのである。
この先同じような状態に陥った時にはまず、自分が誤動作していないかを確認するようにしようと思っている。

(by 黒沢秀樹)

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