子どもの個性、大人の個性

新年明けましておめでとうございます。年明け早々ですが、育児には盆も正月もない、ということで、休まず更新をしようと思います。本年も何卒よろしくお願いします。

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お正月というのは昔は家族みんなで迎えることが多かったが、核家族化が進んだ現在、以前ほどそういう機会は少なくなってきているのではないかと思う。
おじいちゃんやおばあちゃん、兄弟姉妹や親戚などと一緒に暮らすというのはそれなりに大変なこともあるはずだが、家族というのは社会の最小単位であり、そこで育まれたものがその後の人生に大きく影響を及ぼすというのはおおむね当たっているような気もする。
その点では昨今の、特にあまりご近所付き合いなどもない都心部の家庭では、子どもの人との関わり方も昔と比べてかなり変化しているのではないだろうか。なにしろ知らないおじさんがちょっと子どもに声をかけたりすると不審者だと思われてしまうような、なかなかに難しい時代なのである。

運良く自分には子どものいる友人がいて、一緒に遊んでいる様子を見ていると色々と考えさせられることがある。月齢の違いはかなり大きな差となって現れるが、さらに月齢や性別を超えた「個性」のようなものが、やはりその子どもによってそれぞれなのである。
最近の育児書などを眺めると、「個性を伸ばす」などという見出しを良く見かけるが、個性というのは一体どういうものなのか。以前このノートに読者の方からお便りをいただいたことをきっかけに考えたことがあったが、自分は個性というのは様々な情報のインプットに対してどういう反応傾向を持っているのか、ということだと思っている。
例えばおもちゃの取り合いになった時、ひたすら泣く子もいれば、頑なに離さない子、あっけらかんと渡してすぐに他のおもちゃで遊び始める子、拗ねてものを投げる子、無になる子など、その反応傾向はそれぞれである。
好き嫌いがあるのも当然である。自分はあらゆる食べ方を模索したにもかかわらずいまだに納豆が苦手で食べられないが、2歳半の息子は美味しそうに食べている。これはちょっとうらやましいが仕方がない。
自分と他の人間は、たとえそれが養育者と子どもの関係だったとしても、感じることや考えること、そしてどういう行動をとるのかに違いがあるのだ。

自分の子どもの頃を振り返ると、どうにも自己表現が下手だったように思う。おぼろげに記憶にあるのは、幼稚園で自分のおやつのビスケットが回ってこなかった時のことである。
たまたま先生がうっかり忘れただけなのに、自分は号泣、絶叫しまくって保育士さんをひどく困らせた。子どもの自分は、たまたまおやつの皿が回ってこなかったことを、過剰にないがしろにされたように感じていたのである。ただ「自分のおやつがない」と言えば済むことであるにもかかわらず、それが出来ずにひたすら絶叫するのは困ったもので、先生もなぜ泣いているのかわからなければ対処のしようがない。子どもの成長過程ではよくあることかもしれないが、これは個性以前の問題であり、コミュニケーション不全と言っても良いだろう。

大人になっても多くの人たちが悩んでいる問題、それは人間関係である。昨今の離職率の大半が賃金や待遇ではなく、人間関係が原因だと言うデータを何かのニュースで見たことがある。
人間はひとりでは生きていけない。そのためにはそれぞれが感じ方や考え方の違いを乗り越えて、より良い関係を作っていく努力をし続けてなくてはいけないはずだ。それには思っていることを伝えられ、受け止められるコミュニケーション、心理社会的能力が不可欠なのである。自分の気持ちを素直にわかりやすく伝えられると言うことは、同時に他の誰かの意見を素直に聞くことが出来ると言うことでもある。

幼少期の自分のことを考えると、そこに必要だったのは、自分の思っていることを言っても大丈夫だという基本的な人との信頼関係だったのではないかと思う。
自分をはじめ、大人には子どもの個性を云々言う前にするべきことが、実はたくさんあるような気がする。
子どもの気持ちを素直に聞き、そして自分の気持ちを素直に伝える。そんな基本的なことを忘れずにいたいと思う。

(by 黒沢秀樹)

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