公園と「棒」

子どもが生まれてからはその存在意義が全く別次元のものになってしまったもの、それが公園である。
昔はただぼーっとベンチに座って過ごしたり、気分転換に本を読んだりする場所でもあり、それはそれでとても大切な場所だったわけだが、今は子どもを遊ばせるために必須の場所になっている。
今考えると平日の昼間から何をするわけでもなく公園にひとりで座っていた若い頃の自分はさぞ怪しく思われたであろうし、養育者目線から見れば完全に近寄ってはいけない類の人だったと思う。それゆえ、昼間の公園にひとりでたたずんでいる若者などを見かけたら、きっと何かしらの事情があるのだろうと考えてそっとしておいてあげようと思っている。

ともあれ、こんなに頻繁に公園に通うことになるとは全く思っていなかった。身近に子どもが安全に走り回れるような広い場所が少ない都心で子育てをするためには、公園はなくてはならない場所であることを実感している。
子どもが遊べるような公園にはだいたい遊具がある。滑り台やブランコ、動物や乗り物の形をした乗り物、鉄棒やジャングルジムなどは自分の子どもの頃からある定番で、人気のある遊具は順番待ちになることも少なくない。しかし、そういうものがない場所でも子どもはちゃんと遊ぶことができる。その代表とも言えるものが「棒」だ。

子ども、特に男の子はなぜ「棒」が好きなのか。昔は棒(というかだいたいは木の枝)を振り回しているガキ大将の姿が漫画やアニメの中にもよく出てきたが、今でもやはり子どもは棒が好きなのである。自分の息子も公園に落ちている大小様々な棒を見つけてはそれを手に取り、いろんなものを叩いたり振り回したり、地面に絵を書いたりしている。
あの行為にはいったいどんな意味があるのだろうか。もしや人間にもともと備わっている本能のようなものなのではないだろうか。気になって調べてみると、やはり同じような疑問を持っている養育者がたくさんいることがわかった。

簡単に言えば、子どもは発達の過程で様々な実験を繰り返し経験値として積み重ね、それを統合することによって行動をコントロールできるようになっていく、というのが大まかな解釈だが、その中で「棒」を使った遊びはどんな役割を果たしているのか。人間の持っている攻撃本能や狩猟民族時代の名残り、自己顕示欲の現れなど、その考え方は様々だが、自分の子どもの頃を思い返すと、そういえば確かに棒を持っていたような気もする。

その時どんなことを思っていたのか、子どもの様子を見ながら考えてみた。まず、「棒」は子どもが手にする「道具」というものの最初のかたちなのではないだろうかと思う。もちろん哺乳瓶やスプーン、フォークなどの道具はすでに知っているものだが、それはすでに用途が限定されている。それに比べ「棒」が特別なのは、まだ誰にもその用途を限定されない、子どもにとって非常に自由な道具なのである。棒を使えば地面に絵を描くことも出来るし、小さな穴を掘ることも出来る。何かを叩いて音を出す楽器にも出来るし、使い方によっては武器にもなるのだ。
大人にとっては何が面白いのか全くわからない「棒」も、こう考えるとなんとなく子どもがどうしても手にしたくなる気持ちがわからなくもない。
「棒」、その向こう側には限りない自由があるのだ。

しかし、たくさんの子どもたちが遊ぶ公園に行くと、その自由もやはり制限されてしまうことになる。他の子どもに迷惑をかけたり、自分が怪我をしたりすることのないように養育者が注意を払う必要があるのは当然だが、考えてみればただの木の枝である。ただの棒に気を遣わなくてはいけないような環境というのもなんだか滑稽でもあるし、それが子どもの主体性や創造力を奪ってしまうようにも思う。
木の枝さえも自由に振り回すことが出来ない時代に生まれた子どもたちには、せめて心の中に自分だけの大切な「棒」を持って欲しいと願っている。

(by 黒沢秀樹)

※編集部より:全部のおたよりを黒沢秀樹さんが読んでいらっしゃいます。連載のご感想、黒沢さんへの応援メッセージなど何でもお寄せください。<コメントフォーム
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