「おみせです」

ここ最近、息子は買い物という行為を覚えたようだ。そういえば近所のパン屋さんで大好きなソーセージデニッシュを買うときに、出したお金をトレイにおいて「どうぞー」とレジのお姉さんに差し出していたし、八百屋さんでも同じことをしていた。好きな色の花を選んで買った時、花屋のおじさんに百円玉を渡してもらったこともあった。息子は「お金」というものの全体像はよくわからないけれど、モノと交換するものらしいということはうすうす気がついている。

そして定番の「お店やさんごっこ」である。テーブル越しに「おみせです」と言って何かを売っているようなので「アイスください」と言ってみると、手を差し出してくれる。試しに「いくらですか?」と聞くと「ひゃくえんです」と言われて衝撃を受けた。息子が疲れ果てた自分にアイスをくれるふりをしてくれたことは先日書いたが、ついに金銭のやり取りを要求するところまできたわけだ。

お金という概念がない子どもにとって、買い物というのはどういうものなのだろうか。単純にモノとお金を交換するという行為が面白くて真似をしているのだろうと思うが、「お店やさんごっこ」の中にはそれだけではないたくさんの側面もあるように思う。
言語というものを介して行われるコミュニケーションが会話だとするなら、買い物は通貨というものを介して行われるさらに高度なコミュニケーションのひとつだろう。
当然だが、お金は大切なものだ。しかし、子どもにそれをどう説明したら良いものか、小さなアイス屋さんの前であらためて考えさせられている。

お金というものは信用を取引する手段のひとつであり、そのもの自体に価値があるわけではない。紙幣や硬貨はそこに書かれている額と同じ価値をいつでも保証する証書のようなもので、元々は米や塩や貝、そして金、銀、銅など運搬や加工が容易で劣化しにくく、その価値が誰にでもわかりやすいものだったそうだ。その代わりとして通貨が生まれたわけだが、キャッシュレス化が進みもはや現金を使う機会も減ってきたこの時代に、お金はただの数字になっているとも言えるだろう。
お金は労働や誰かの役に立つものを提供すればそれに見合った額が手に入るはずだし、お金がたくさんあればたくさんのモノと交換出来る。しかし、お金があってもなくても、他の何かに換えられないものは確実に存在する。
お金について子どもにどう説明するかを考えているうちに、実はお金に換えられないものから伝える方が大切なのではないかと思いはじめてしまった。

これは育児ノートなので子どもについて考えると、お金や他のものに換えられない大切なもののひとつ、それは愛情だろう。愛情というのがどういうものかは定義がとても難しい。それゆえに何かに換えることができないわけだが、仮にそれを人間が生きていくために必要な、燃料のようなものだと考えてみた。
子どもは大きくて空っぽの愛情タンクを標準装備して生まれてくるので、養育者は本能的にそのタンクをなるべく燃料でいっぱいにしておきたくなる。それがうまくいった場合、子どもは成長することで自分で燃料を作り出したり再生したりすることができるようになり、そこから溢れ出したものが自分以外の誰かに分けてあげられる分になるのではないだろうか。
しかし子どもはなにしろ燃費が悪いので、どんなに燃料を入れてもあっという間に底をついてしまうし、そもそも養育者自身に供給できる燃料が不足している場合がある。
子どもであれ養育者であれ、自分のタンクが満たされていないのに他の誰かの燃料のことを考える余裕はない。慢性的な燃料不足は子どもの成長を阻害することになり、自分で燃料を作り出す方法を知らないまま子どもが大人になってしまうと、その子どももまた燃料不足に苦しむことになる。

以前何かのインタビューで、自分たちミュージシャンのクリエイティビティを同じようにコップの中に入った水に喩えたことがある。アーティストというコップに入れた水から溢れ出たものが作品で、コップが満たされていない状態で何かを生み出し続けるのは難しい、というような話をした記憶がある。もしそれが不満や怒りといったものだったとしても、それはロックやパンクという表現形態になるわけで、何かしらのエネルギーで満たされたコップから溢れ出たものが作品の種になるということだ。
しかしそう簡単にはいかないので、慢性的な水不足の中で作品を生み出し続けなくてはいけない状態が続くこともある。それでも自分で水を入れる方法を知っていればいいが、それを知らなければコップに水を入れることはできず、いつか空っぽになってしまう。

愛情やクリエイティビティはお金に換えることが難しいが、「燃料」や「水」の喩えをお金と置き換えてみると、実はその構造は非常によく似ているのだ。
自分はミュージシャンで、その市場価値などはあってないようなものかも知れないが、それゆえに音楽には何にも換えることができない価値がある、と思っている。
果たして息子のアイス屋さんは儲かるのかどうかわからないが、そこに何かに換えられない価値があるなら、それでいいんじゃないかと思っている。

(by 黒沢秀樹)

※編集部より:全部のおたよりを黒沢秀樹さんが読んでいらっしゃいます。連載のご感想、黒沢さんへの応援メッセージなど何でもお寄せください。<コメントフォーム
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