ひとりでできる、は一緒にできる

「いっしょにするー」と最近息子がよく言うようになった。何を一緒にするかというと、主にテレビを見る、食事、ダンゴムシ探しなどであるが、これを一緒にするのもなかなかに骨の折れる作業である。

テレビアニメは集中して見ていてくれるとその時間にいろんな事が出来るので助かっていたのだが、このところはしばらく見ていたかと思うと「父さん、一緒にみる」「すわって、おすわり」とソファーに誘われることが多くなった。
そうなった場合、機関車トーマスやパウ・パトロール、恐竜キングなどのアニメを一緒に見ることになるわけだが、自分の頭の中は仕事のことや他にこなさねばならないタスクで埋め尽くされており、まるでBGVのようにテレビを眺めながら全く違うことを考えるという離れ業を使うことになる。
しかし子どもの洞察力は優れており、アニメを見ているふりをして別のことを考えていることに気がつくと、それを許してはくれない。
「これなんだろう?」「どっかいっちゃったよ?」「たいへんだー!いそげ!」などと話しかけてくるのだ。

すっかりひとりで遊べるようになった公園の遊具にも「いっしょにのる」と言い、今日はいくら小柄な自分でも無理のある小さな滑り台や、完全に子ども一人分のスペースしかないカエルや飛行機の形をしたスプリングのついた乗り物にも同乗することになった。
他にも「ダンゴムシ行こうよ」「いっしょに買い物行く」「公園行こうよ」「恐竜になるよ」など様々なイベントへの招待があり、誘われてうれしいものもあるが、ダンゴムシをつんつんする役割を与えられたりスーパーマーケットの売り場で追いかけっこをする羽目になったりするのは正直あまり気が進まない。
先日、「退行」と呼ばれる2歳から3歳くらいの子どもが赤ちゃんのような状態に戻って甘えることを書いたが、きっとこれもその流れなのかもしれない。

しかし、ふと考えた。何かを「一緒にやる」ということは、それぞれが別の人間であることが必須である。つまり、今子どもは自分と他人の区別がついてきているということでもあり、これはとても大きな変化である。
どういうことかというと、これまでは自分と他人(例えば養育者)の区別がまだついておらず、自分の感じるままにただ泣いたり笑ったりしていたわけだが、他人が自分の要求や行動にどんな反応を示すかということが、子どもにとって大切になってきているということである。
人のことが気になるということは、誰か自分以外の人間の気持ちを想像する土台ができつつあるということだろう。そう考えるとこれは退行ではなく、大きな前進といっても良いのではないだろうか。
子どもはまだ発達の過程であり、ひとりでできることが増えてくると、今度はそれを誰かと一緒に共有したいという気持ちが生まれてくる。何かの行動を共有することで信頼関係が構築され、そこで初めてそれぞれが役割を分担して物事を進められるようになっていくのではないだろうか。これは大人の世界でも同じことである。
やはりここで「もうひとりで遊べるでしょう」などと言わず、一緒に恐竜になったりダンゴムシを探すことは大切なのである。

人間がひとりで生きていくことは難しい。それぞれが得意なことをして、お互いを補完し合うというのが社会である。例えば自分はミュージシャンで、音楽を作ったり演奏したり、歌詞や文章を書いたりするわけだが、それはお医者さんが病気を治してくれたり、パン屋さんが色々なパンを作ってくれることとそんなに変わりはない。それぞれが自分にできる得意なことをして、誰かの役に立つことで補完しあっているのである。
お医者さんやパン屋さんと違い、自分の音楽や文章がどのくらい人の役に立っているのかはよくわからないけれど、いつか自分の子どもも誰かの信頼に足る得意なことを見つけてくれたらと思う。

そのうち子どもに「ダンゴムシ探しといて」などと言われるのかもしれないが、その場合はしっかりと自分の意見を伝えることも大切だと思っている。
「君がダンゴムシが好きなのは知っています。でも父さんは虫が苦手なのでイヤです」と。
人にはそれぞれ得意なこととそうではないことがあり、それは当然のことである。それがきちんと言えてこそ、大人であると考えている。

(by 黒沢秀樹)

※編集部より:全部のおたよりを黒沢秀樹さんが読んでいらっしゃいます。連載のご感想、黒沢さんへの応援メッセージなど何でもお寄せください。育児おもしろエピソードも引き続き募集中です。<コメントフォーム
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