オレはこのお経を解説する場合、その内容に従って五つに分解することにしている。
般若心経は広く流布したお経であって解説者・研究者の数はアホほど多いのだが、みな表面的な理解に終始するばかりで本来の奥深い意義に達することができたものは誰ひとりとしていない。(これまでになされたいくつかの翻訳のうちの細かい部分の違いや、顕教と密教による理解の仕方などについては後で説明する)
ある人が言う。
「仏教典はおおまかに三つに分類できる。目に見える具体的な事物を通じて説明するもの、それら全ては実在しない、つまり「空」であると説くもの、そしてその二種をあわせて中道をいくものの三つだ。そして般若心経は二番目の種類に該当する。そういう意味では結構中途半端なものだよね。」、と。
こういう連中は仏教徒の皮はかぶっていても「ブッダの説く言葉はわずかに一文字でも五種類の教えを含んでおり、一瞬で全ての教義を満足させることができる」ということを信じていないのだ。
たった一文字、一瞬で全てを説明し尽くせるのだ。経文が一句、一節しかないからといって、なんの中身がとぼしいことがあるものか! それは例えば、ちっぽけな亀の甲羅や草の茎であっても全宇宙の事象を占うことができるようなものだ。「帝釈天網」にも似ている。
(注:帝釈天網=天帝インドラの屋敷を覆っている網。全ての結び目にクリスタルが取り付けられていて、どれかひとつのクリスタルに情報が入ると一瞬で全てのクリスタルに反映されるという究極のセキュリティシステムである)
そんなヤツらはさらにこうも言うのだ。
「オマエが言うのが本当なら、従来の学者たちで誰ひとりとしてそのことに触れたものがいないのは何故だ? おかしいじゃないか!」、と。
まぁ、アホには何を言ってもムダなのかも知れないが、黙っているとつけあがりそうなので一応反論しておこう。
だいたい医者というものは患者の病状に応じて薬を処方するものだ。聖人もそれと同じで、相手をよく見て一番効果がありそうなやり方で教えを説く。場合によっては敢えて説かないこともあるが、それは適当な時期がくるのを待っているのだ。説くのにふさわしい相手が現れるのを待っていることもあるだろう。
果たして先人たちは「説くべきだった」のに黙っていたのか、それとも「説くべきではない」と考えて黙っていたのか、それはさすがのオレにもわからない。
そして今まさにオレはそれを説こうとしているのだが、後々、「アイツは説いてはならないことを説いた」と責められることになるのかどうか・・・
まぁ、この点については後世の賢い人たちに任せ、今は気にしないことにする。
―――――つづく