十身調御の仏 4/4話(第九十九則「粛宗十身調御」)

洞山和尚は人を教導する際に「認識発生以前のような奥深さをもつやり方(=玄路)」「鳥の飛跡のように痕跡を残さないやり方(=鳥道)」「両手ですくいあげるようなやり方(=展手)」の三種類の指導法を使い分けたといいます。

とある僧が質問しました。

僧:「和尚はよく『鳥の道を行け!』とおっしゃいますが、それはいったいどのようなものなのでしょうか?」
洞山:「途中で誰とも出くわさないような道じゃ!」

僧:「どうやったら行けるのでしょうか?」
洞山:「くれぐれも自我が存在するなどと思わぬことじゃな」

僧:「自我こそが鳥の道を行くのではないのですか?」
洞山:「……なんで逆にするんじゃ?」

僧:「私のどこが逆なのでしょうか?」
洞山:「奴隷を主人だと思っているところじゃ!」

僧:「……それでは『自我』とはいったいどのようなものなのでしょうか?」
洞山:「鳥の道を行かないことじゃ!」

いかがでしょうか? ここまで徹底できてようやく少しは見込みがあるということになるのです。

今回のエピソードに対して、雪竇和尚は次のようなポエムを詠みました。

「国師」なんていったって、所詮は無理やり名付けただけのもの。
ただ慧忠和尚にはその資格あり。
巨大な唐の国の王様を助けて、仏の頭を踏んづけて行ったのだから。
ハンマーで黄金の骨を打ち砕く。
天と地の間にあるものは何?
三千世界の陸と海の夜が深々と更けてゆく。
ブラックドラゴンのねぐらに入るのは、いったい誰だ!?

本当に凄い人は歴史に名前を残さないものですが、慧忠国師だけは国師の名に値する仕事をしています。

仏が十に分身しようが百、千、万、億に分身しようが、結局は一人なのです。

この仏の一人であるところを見極めて、その頭を踏んで通ってこそ、人々を教え導くことができるのです。

人々がわけもわからず有難がっている「法身=黄金の骨」を、雪竇和尚は一撃で打ち砕いてしまいました。

「天地の間に何もない」というのがこの世の本来の風景です。

夜が深々と更けゆく時、天地はまさに澄み切ります。

……だからといって「要するに眼を閉じればいいんだね!」などと考えては毒の海に頭から突っ込んでしまいます。

さて、抜き足差し足でブラックドラゴンのねぐらに入っていくのは誰なのでしょうか?

答えのわかった人、ぜひともご教示くださいませ。

<十身調御の仏 完>


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