四:二(悟りで得られる結果):「無無明」~「無苦集滅道」
「二」とは何か?
それは、「自我」とは「五蘊」(五種の感覚器官である「眼・耳・鼻・舌・身」)が作り出す幻にほかならないということと、因果関係を正しく理解してその発生源を断てば迷いをなくすことができるという、ふたつの教えのことだ。
これはつまり「二乗(聞いて悟る者・独力で悟る者)」の境地であって、発生から消滅に到る根源的な因果の連鎖を正しく見きった者だけが見ることのできるものである。
これをつなげて現代語訳するならば、以下のようなものになる。
風に吹かれて舞い散る木の葉は、ものごとの生起の連鎖を教えてくれる。
生と死の無限にも思える連鎖を見きるには、あとどれだけの年月が必要なのだろうか。
葉の露が蒸発して花が枯れたなら、迷いのタネを取り去ることができる。
「ヒツジが牽引する車」と「シカが牽引する車」は、いずれもセンスのない者を教え導くための方便という意味で同じである。
「無苦集滅道」とはよく言ったものだ。
白骨のどこに「自我」があるというのだろう。また、青くむくんだ死体を見れば「人」という存在など最初からなかったことがわかる。
「身体」は執着するほど美しいものではなく、「感覚」への執着は苦痛をもたらし、「心」はひとつ場所にとどまることなく、思考の主体となる「自我」は存在しない。
これは「四念」と呼ばれる境地であり、上述の「二乗」を極めた者たちが楽しむところである。
―――――つづく