足利直義:なるほど了解です!(笑)
すみませんが少し話を変えさせてください。
私は「真の悟りを得た人は、よい死に方ができる」と聞いています。
ところが信心深い人格者だったのに、死にざまがあまりよろしくない人がいます。
逆に、信心などまるでなく、わりとつまらない人物だったにもかかわらず、実に穏やかに死を迎える人もいます。
生前はこれといった取り柄のない凡人だったにもかかわらず、火葬後に宝石とも見紛うばかりの美しい舎利が生じる人がいる一方で、極めて徳の高い人物だったのに、火葬後に全く舎利が生じない人もいます。
なぜこのようなことが起こるのでしょうか?
夢窓国師:元来、一切のものごとには決まった形はないのじゃ。
見た目は善に似ているのに実際は悪なこともあるし、その逆もある。
死に方、つまり臨終の様子もそれと同じことじゃ。
いくら臨終の様子がきれいだったからといって、生前の行いが悪ければ「よい人だった」ということにはならないじゃろう。
なぜそんなことが起こるのかといえば、ひとつには天魔が人間を惑わせるためにイタズラをしかけているということがある。
また、真の悟りにはつながらなくとも世間的に善とされていることに尽力した人は一旦は死後に天上に生まれ変わるため、その臨終はきれいじゃ。
お経の中には「死後、天上に生まれ変われる人」の条件として、以下のようなものが挙げられておる。
- 病気の時に他人を恨んだり悪口を言ったりしない。
- 病気の時に激痛に苦しんだり、錯乱したりしない
- 現世の財産や人間関係に執着しない。
- 今わの際に仏や菩薩、あるいは自分の信じる神様の名を呼ぶ。
中でも最上位とされる忉利天(とうりてん)に生まれ変わるような人の臨終の際には、部屋に高貴な香りが満ちてきて妙なる音楽が流れはじめ、天人がお迎えに来るのだとか。
・・・まぁ、それほどのことがあったとしても、真の悟りがなければいずれ生前の善行の果報が尽きるときがきてしまうのじゃがな。
逆に、臨終の様子が悪くとも尊敬すべき人もおる。
これも天魔のイタズラでそうなっているのであって、立派な修行者の死にざまを悪く見せかけることで後進の修行者たちの動揺を誘っておるのじゃ。
いくら正しい修行を積んでいたとしても、生前の善行が前世の悪行を下回っておれば、その死にざまはよくないじゃろう。
ただ、その場合は一旦は臨終が悪相であっても、努力の方向性は間違っていないわけなので、いつの日か、必ず真の悟りに到達できる。
竜宮城に住む海の大王である沙羯羅(サーガラ)龍王の八歳になる娘「龍女」が突然仏になるというエピソードが法華経に書かれておるが、畜生道に堕ちてしまった龍女の前世がどんなものだったかを考えるに、その死に方がよいものであったとは到底思えんのじゃよ。
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