別訳【夢中問答集】第七十二問 悟った人とそうでない人の見解の違いは何? 2/2話

「あらゆるものごとの本質」には二種類あってな、この性徳における「識」というヤツこそが「真の心」であって、それ以外の要素は全て「みせかけだけの心」じゃ。

ただ、これ自体も「あらゆるものごとの本質」なので、他の要素とまじりあっていて見分けがつかなくなってしまっておる。

そしてその状態こそが「宇宙の真実の姿」なのじゃ。

見分けがつかないからといって区別がなくなってしまったわけではない。
だから「識」が不動・不滅であるのと同様に、それ以外の要素も不動・不滅なのじゃ。

仏教典に「『あらゆるものごとの本質』は、今も昔も変わらずにあり続けている」と書かれておるのは、まさにそれを意味しておる。

世間一般の人がこの「あらゆるものごとの本質」を見るとき、見る者のレベルによって様々に見え方が変わる。

たとえ同じ人が見ても、その人の気分や体調によって、また見え方は変わる。

それはあたかも舟に乗っている人が岸を見たときに舟ではなく岸の方が動いているように見えたり、眼球に異常がある人が、空中に花びらがチラついているように見えたりするようなものじゃ。

お経に「あらゆるものごとの本質は、みせかけだけのマボロシなのだ!」と書かれているのは、この観点から述べたものじゃ。

ある時は「みせかけだけのマボロシ」だと言い、またある時は「実在する真実」だと言う。
言い方は真逆だが、実はこれはどちらも同じことを言っておる。

仏教というものがわかっておらんヤツは、このように一見して相反する言葉を聞いたとき、どちらか片方だけを信じようとするので、「議論のための議論」の域を出ることができない。

眼球に異常がある人とそうでない人が同じ場所で何も置かれていない場所を見るとき、眼球に異常がある人の前には花びらが舞い、チカチカと光が明滅する。

しかし、眼球に異常がない人の前にはそのようなものは出現せず、ただ、何もない空間が広がっておる。

煩悩即菩提、生死即涅槃、常位即妙不改本位などという言葉は、全てそういった観点で理解すべきものじゃ。
常相即道、即事而真というのもまた同じことじゃ。

従って、「わけのわからんヤツでも適当な見解を振り回しておりさえすれば、いずれ仏と同じ知見が得られる」などというのは大間違いじゃ!

もしそうなら、諸々の仏たちは、いったい何のためにこの世に出現したというのじゃ?

顕教や密教の師匠たちが弟子たちに修行をさせるのは、いったい何のためだというのじゃ?

昔の大師匠たちがみな、わざわざ都市部から離れたところに修行場を作り、女人禁制にして飲酒や肉食を禁じたのはなんのためだというのじゃ!?


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