足利直義:「念仏だって立派な大乗修行だ!」と言っている人もおりますが?
夢窓国師:念仏を唱えるという行為自体には大も小もない。
その大小は、唱える人がどれだけ「真実」というものを理解しているかによるのじゃ。
涅槃経や宝積経などには、「仏さまの教えには『真実の教え』と『方便の教え』の二種がある。末世の人々は『真実の教え』にこそ従うべきであって、決して『方便の教え』に甘んじていてはいけない。『一般人と仏は別のものだ』とか『苦痛の耐えない現実世界の外に極楽世界がある』などというのは全て『方便の教え』である。『一般人とか仏とか、現実とか極楽とかの区別は存在しない』という教えこそが『真実の教え』であて、それを大乗と呼ぶのだ」、と書かれておる。
だとすれば、「現実世界を超えたところに極楽浄土がある」とか「一般人と仏は別物」と教える浄土宗は「真実の教え」ではないということになる。
浄土三部経のひとつである観無量寿経には、「念仏を唱えると極楽に生まれ変われる。ただ、理解力の低い人は宇宙が十二回発生と消滅を繰り返すのを極楽の蓮の中で過ごした後に、観音菩薩や勢至菩薩から大乗仏教の指導を受けることで、やっと修行の入口にたどりつける」と書かれておる。
もしも念仏が大乗修行なのだとしたならば、「極楽に行ってから大乗の指導を受ける」というのはかなりおかしな話になるとは思わんか?
しかもそれは浄土宗が信奉している浄土三部経に書かれておるのじゃ。
つまり、「念仏を唱えろ」というのは、大乗修行をやる気がないヤツらを「極楽に生まれ変われる」という言葉で釣るための方便なのじゃ。
「極楽浄土への生まれ変わりは決してゴールではなく、修行の入口に過ぎない」ということを知るべきじゃ!
大乗の修行者の中にも念仏を取り入れているものはおるが、これはあくまでも補助的なものとして取り入れているのであって、決してメインの修行法としてではない。
センスの良い修行者に至っては、始めこそ実際に口に出して念仏を唱えはするものの、じきに口には出さなくとも思考や行動の中で念仏を表現できるようになる。
「思考や行為自体が念仏」という境地じゃな。
そのことは般舟三昧経に詳しく書かれておる。
いずれにせよ、「念仏を唱える」という行為は方便なのであって、それだけに留まっていては何も起こらないということは言えるじゃろう。

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