僕は1997年から2年間、沖縄本島の那覇市で暮らした。首里地区にアパートを借りていたので、首里城の龍譚池や守礼門付近には朝夕よく散歩に出かけた。その首里の坂のところで、ほぼ毎日と言っていいほど顔を合わせる女性がいた。年齢は、60歳を過ぎているぐらいだった。
「あんた、見たことあるね!」
「あ、4月に東京からこの近くへ引っ越してきた佐藤と言います。どうぞよろしくお願いします!」
「そう。あんた、元気なひとだね。」
次の日、坂でまたその女性とすれ違った。彼女は、昨日と同じ言葉をかけてきた。
「あんた、見たことあるね!」
「はい。昨日も会いましたよ、ここで。佐藤と言います。どうぞよろしくお願いします!」「そう。元気なひとだね。」
3日目も彼女は、変わらず声をかけてくれた。その女性のことが気になったので、近所のスーパーで女性について訊ねてみた。すると、どうもその女性には、しばらく前から認知症の症状があるとのことだった。
4日目、朝の散歩の折、彼女が前から歩いてきた。そして同じく言葉をかけてきた。
「あんた、見たことあるね!」
「はい。僕もAさん、見たことあります。」
「へえー、そうね。どこで見たって?」
「ここですよ。」
「ほー。見かけない顔だね。」
「はい。東京から引っ越してきた佐藤と言います。どうぞよろしくお願いします!」
「そう。あんた、元気なひとだね。」
以来、僕は首里の坂で何度となく、同じ言葉を彼女と交わした。住みはじめたばかりの街で、近所の方から「見たことあるね」と声をかけられることが嬉しかった。同じやりとりのように見えても、季節、天気、お互いの格好など、舞台設定は変化に富んでいた。数メートル先から彼女が歩いてくると、お気に入りの音楽のイントロ出しを待つような、不思議な気持ちにもなった。
「あんた、見たことあるね」に、「僕もAさん見たことあります」と応える交流。もう20年近くも前の話だが、ご近所さんとの挨拶で、何気なくも繰り返して交わす言葉の大切さ、豊かさを知ることができたと思っている。
コール & レスポンス!