こんにちは。地球フィクション研究家、猫型宇宙人の猫丸です。
先日、面白いマンガを読み、地球製フィクションの奥深さを再確認したもので、そのことを何回かに分けて書きたい。
バベルの図書館といろいろ
面白かったマンガとは、つばな作『バベルの図書館』だ。
この作者、『ホブゴブリン 魔女とふたり』という作品を最初に読んですっかりファンになってしまった。これは妖精や魔女やお姫様が登場する中世のおとぎ話の体裁で、その範疇をはみ出しはしないものの、おとぎ話の世界観やルールを「えっ?」と軽い驚きも心地よくわずかずつ突き破りながら、意外なところに着地する作風が魅力的な作品だ。意外といっても派手で奇抜などんでん返しを持ってくるあざとさはなく、穏やかに意外という絶妙さ。絵柄も可愛い。植物や日用品の描き方の独特のゆるさがいい。謎の怪物を描くのがうまい。キャラクターの顔や表情も可愛らしく、身体のなだらかに柔らかいフォルムも素敵だ。腕や脚がふっくら丸みを帯びていて、末端の手足がちんまりと小さいところもたまらなく可愛い。なんか全部いい。
続けて読んだ『第七女子会彷徨』もよかった。近未来SF的なのだが、描かれるのは、主人公の女子高生二人のちょっと変てこな日常で、その変てこ加減は、3月までホテル暴風雨4649号室で連載された、浅羽容子作『シメさばケロ美の小冒険』と共通するものがある。思いがけないところにSF的な仕掛けも大小さまざまにちりばめられて、これまたすてき滅法界に面白い。この作品は全10巻とボリュームがあるが、一気読みがもったいなくなるほどで、じわじわ5巻まで読み進めたところだから続きも楽しみだ。
さて次に今回の主役、『バベルの図書館』。これもとても面白い。先に挙げた二作とはやや趣きが違い、共通するテーマを書いた先行作を連想させる印象的な作品だった。
同じタイトルを持つボルヘス著『バベルの図書館』を連想する人は多いだろう。私もそのひとりだが、読み終わって連想したのはまた別の作品だ。
ちなみに当「ホテル暴風雨」とバベルの図書館の関わりは深い。ホテルの図書館司書兼コンシェルジュを務めるのは白ヤギのバベルさんだし、
ボルヘス著『バベルの図書館』については、斎藤雨梟オーナーも妙な思い出話を書いている。
さて連想した先行作とは、福永武彦著『死の島』である。
『バベルの図書館』はマンガで『死の島』は約40年先立って発表された長編小説、作風もストーリーも一見似ても似つかないが、驚くべき共通点がある。
ひとつは作品そのもののテーマ。また、どちらもかなり実験的作品であること。さらにもうひとつ、主人公の名前が似ている。
『バベルの図書館』は女子中学生・相馬(あいば)かなえ
『死の島』は男性編集者・相馬鼎(そうま かなえ)
これが偶然とは思えず、『バベルの図書館』の作者つばなの意図があるのだろうが、偶然だったとしてもそれはそれで面白い。
何しろ『バベルの図書館』は、相馬かなえともう一人の主人公で同級生の渡瀬量とが、一言一句違わぬ400文字の作文を書いてしまい、先生に叱られるところから始まるのだ。二人は親しいわけではなく、示し合わせたわけでも、互いの原稿を見たわけでもない。ではこれは偶然なのか?というのが物語の導入部になっている。
存在の耐えられない軽み?
さて、では、つばな作『バベルの図書館』と、福永武彦著『死の島』に共通するテーマとは何かというと、少々乱暴な括り方にはなるが、「選ばれなかった言葉」「描かれなかった物語」ということだ。
世の中には、作者が加筆修正を繰り返したため複数のバージョン違いが存在する作品もあるが、一般にはひとつの物語は、ひとつの言葉の選び方でひとつに決まっている。
ひとつの物語が存在するとき、その背後には無数の「書かれなかった物語」が隠れているとも言える。
有名な松尾芭蕉の句も「古池か?蛙飛びこむ水の音」にだってなれたはずだ。もはや別作品である。芭蕉の選択は正解だったというしかないが、こっちだって面白い。「プールだよ!おけら追い越し一等賞」などの返句もあり得て、書かれなかった物語は登場人物も違いそうだ。
ミラン・クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』も、『存在の耐えられない軽み』だとしたら妙に当世風になる。
何が起源なのかよくわからないが、近頃日本では語尾に「み」がつくのが流行している。「面白さ」と言わずに「面白み」という表現なら昔からあったが、従来なら「すごく帰りたい」というところを「帰りたみがすごい」などというのだから面白みがすごい。私もそろそろ「猫みのある宇宙人」と名乗るべきか迷う。
『バベルの図書館』と『死の島』と『存在の耐えられない軽さ』
脱線したが、実はこれは更に大きな脱線の序章である。『バベルの図書館』と『死の島』の二作について書くと宣言しておきながら『存在の耐えられない軽さ』というまた違う書名を出してしまったのが運のつきだ。
この『存在の耐えられない軽さ』、映画化もされた有名作だが、つい最近まで「面白いタイトルだ」と思いつつも、読んだことがなかった。映画も未見である。
それが、本稿を書くにあたり、ただただタイトルをもじって使いたいがために一応読んでみたところ、面白いばかりでなく、最初にあげた二作とどこか共通するテーマを持っていた。偶然だろうか。「選んだ読書の道」があるならば路傍には選ばれなかった無数の本が散っている。内容の類似は偶然としても、間違いなく私のアンテナが選んだ本だ。
そんなわけで選んだ作品の系統を使って選ばれなかった言葉について考えるということをしてみたい。つまりはまず、この一連のフィクション研究の手始めに『存在の耐えられない軽さ』について書くことにする。
永劫回帰
ミラン・クンデラ著『存在の耐えられない軽さ』は、1984年発表、1968年の「プラハの春」(40字くらいで言うと、当時のチェコスロバキアで政治体制を改革しようという運動。ソ連の軍事介入を受けた。文字数を増やしても私には理解不足で正確に説明できない)を背景とした小説だ。
読み始めると冒頭から驚かされる。
永劫回帰という考えは秘密に包まれていて、ニーチェはその考えで、自分以外の哲学者を困惑させた。われわれがすでに一度経験したことが何もかももう一度繰り返され、そしてその繰り返しがさらに際限なく繰り返されるであろうと考えるなんて!いったいこの狂った神話は何をいおうとしているのであろうか?
『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ著/千野栄一訳 集英社文庫 より
いきなりこれだ。何をいおうとしているのか?とはまったくこっちのセリフだ。
いわゆる名作の有名な書き出しというのがある。国境のトンネルを抜けたりするやつだ。たいていの作品はトンネルを抜けてしまえば物語世界が待っている。だが本作は、この後も数ページに渡り延々と永劫回帰について、そして「重さ」と「軽さ」について述べる。「一度は数のうちに入らない」というドイツのことわざも登場する。
一度だけおこることは、一度もおこらなかったようなものだ。人がただ一つの人生を生きうるとすれば、それはまったく生きなかったようなものなのである。
『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ著/千野栄一訳 集英社文庫 より
どうやら、永遠に繰り返される行為は永遠の責任がつきまとう「重い」もので、一度きりの行為は「軽い」ということらしいとわかる。
三節目に入ってようやく、物語の主人公の名前が登場する。だが作者はなお「重さ」と「軽さ」の対立について語ることをやめない。
時間という次元を自由に行き来できない地球人類の人生はどれも等しく一度きりである。これから登場する人物の人生も恐らくそうだろう。ではその人生と存在とはそんなに「軽い」のか。普通の人生並みに軽いのか、それ以上に特別に軽いのか。それがどう「耐えられない」のだろうか?気になってくるのは自然のなりゆきだ。だが、人物が生き、動いて話す物語にようやく突入しても、「重さ」と「軽さ」はどうなったのかふと気にかかる頃合いなど全然待たずに、また語り手が登場して雄弁に語り出すのだ。「重さ」「軽さ」は作品を通底するテーマだというだけではない。象徴的な意味を超えて、何度も何度も何度も何度も作中に言葉として登場する。
かなり変わった作品だ。
視点は三人称視点、あらゆる時、あらゆる場所で、それぞれの人物に起こることも人物の心情も知り尽くしている全知の存在、というタイプの語り手なのだが、すぐに「それ以上」の視点を含むことに気づかされる。
さてその視点とはどんなものか? この作品の語り手は何者なのか?どんな登場人物が出てくるのか? それは「描かれなかった物語」とどう関わるのか? などを、次回書きたい。
猫丸の地球虚構研究、いかがでしたでしょうか。
次回もどうぞお楽しみに。
夏ですね。夏といえば、猫丸さんも楽しみにしている、ホテル暴風雨恒例、だけど毎年はできない「お花見」。一体どんな花!?こちらのマンガをぜひご覧ください。
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