ホテル文学を語る:『秋のホテル』と『誰もいないホテルで』レビュー 前編

<この投稿は暴風雨サロン参加企画です。ホテル暴風雨の他のお部屋でも「ホテル文学を語る」 に関する投稿が随時アップされていきます。サロン特設ページへ>


バベル

ははあ、ほほう、なるほどこれは……

あ、失礼いたしました。みなさまこんにちは。司書兼コンシェルジュのバベルです。今日はとても面白い本があるのですが、ご覧になりませんか?

テンペスト:「バベルさん、修学旅行のお客様が図書室を気に入ってくださったみたいで何よりでした。お疲れさまでした」

バベル:「総支配人、ありがとうございます。担任の先生がとても本がお好きだそうで、本好きな生徒さんも多い。素晴らしいですね」

テンペスト:「それはそうと、なぜこんなに暗くしているのですか?本が読みにくいのではないですか」

バベル:「面白い本がありまして、それがよく見えるように暗くしたんです」

テンペスト:「???」

バベル:「ほら、あの本です。斎藤雨梟オーナーから、おすすめホテル文学の本を借りまして、早速読んだのですが、さっき電話がかかったので、ついこの棚の上に開いたまま置きました。それが、電話を終えて帰ってきたら、ほら、この通り」

テンペスト:「これはまた不思議な。飛び出す絵本のようです。灯台ですね」

バベル:「ええ、光ってます。しかも灯台へ至る足跡があります」

テンペスト:「灯台の出てくる本なのですか」

バベル:「いえ、特には。思うにこれ、灯台好きのオーナーの残留思念ではと」

テンペスト:「途端に怖い話になりました。でも、それではオーナーの持ち物何からでも灯台がニョキニョキ生えてはきませんか」

バベル:「いえいえ、オーナーの意見によると、灯台とホテルは似ているそうで」

テンペスト:「どちらも暴風雨の島にある」

バベル:「うまい感じはしますが、そういう話じゃないみたいです」

テンペスト:「残念。で、ホテル文学だけに本の内容と灯台にも共通点があると?それで本に灯台が出現した?一体どんな本なんです」

バベル:「2冊あります。アニータ・ブルックナー著『秋のホテル』と、ペーター・シュタム著『誰もいないホテルで』。どちらもスイスのホテルが舞台の小説です」

テンペスト:「作者はスイスの作家なのですか」

バベル:「いえ、シュタムはそうですが、ブルックナーはイギリスの作家です。『秋のホテル』はフランスとの国境近くのレマン湖畔、『誰もいないホテルで』はドイツとの国境付近、ボーデン湖に近い湯治場に建つホテルのお話のようです」

テンペスト:「湖ならば、灯台があってもいい気がしますが」

バベル:「でも実際には出てこないのです。ではなぜ灯台か?オーナーの謎のメモをもとに考えていたら、あくまでも推測ですが、読書によって広がったオーナーのホテル観が形をとって出現したのがこの灯台ではと思えてきました」

テンペスト:「ほほう、謎のメモを解読したのですか。バベルさんの推理、お聞きしたいですね」

バベル:「では、今からご披露します」

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ホテル文学におけるホテルの定番

<メモその1>

逗留客は行って、帰る。ホテルは変化しない?

こちらが謎のメモの1枚目です。これは今までのオーナーのホテル観・ホテル文学観ではないかと思うのです。ホテルとは、旅人が行き来をする場所です。灯台が海と陸との境界に建ち、船の出入りを見守っているのと似ています。オーナーのホテル好き・灯台好きは、このように越境的ロケーションにあり、来る者去る者とは異なる次元の視点でただ見ている存在感、に重点があるようで、高速道路の料金所にもロマンを感じるとのことでした。

それはさておき、つまりホテルとは、旅人の立場になれば、行って、いつかは帰る、または次の旅先へ向かう通過点。ホテルやスタッフの立場になれば、人が来ては、去って行く場です。この際、特に「ホテル文学」では、人の行き来や変化は激しくとも、ホテル自体は変化せず、いつも変わらずそこにあるものとされがちなところがポイントです。ホテルスタッフも、ホテルそのもの、またはホテルの備品のひとつかのように、いつでも一定のサービスを供給し続けます。

私も、ホテルのこうしたところに魅力を感じていまして、いつでもここに来れば、前回に続く時間が流れはじめ、安定した居心地、ホスピタリティがある、という安心感が大切だと思い日々過ごしてきました。

『秋のホテル』 アニータ・ブルックナー

「秋のホテル」アニータ・ブルックナー著/小野寺健訳(晶文社)

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<メモその2>

『秋のホテル』 アニータ・ブルックナー
やや面倒くさい感じの女性が主人公。はじめ、次第に閉まりゆくドアからホテルに入り、最後は閉まりかけたドアから出る。彼女は変化する。

テンペスト:「2枚目のメモは本の感想でしょうか。閉まりゆくドア、閉まりかけたドアというのが気になります」

そうですよね。「ドア」というのは、そこを通過する手間やハードルの高さを表しているのではないでしょうか。「変わらない」のがホテルの本分ならば、ドアは出入りの双方向に、常に同じ開き加減で保持されるべきですね。我がホテル暴風雨は、住所不定・定期就航の船も飛行機もないので、両方向にややハードルの高いドアかとは存じますが、ご縁のある方にとっては「来たい、帰りたい」と思えばどちらも瞬時に叶うようなもの。通りやすさは一定していると言えなくもありません。

ところがこの小説では、ホテル自体が変化します。ドアはもともと、入りにくい部類です。何せ然るべき人の紹介状がないと泊まれない高級ホテル。と言っても、贅沢で派手なサービスはなく、こじんまりと静かな居心地の良さで愛されています。湖のほとりにあり、夏は賑やかですが、秋になると滞在者はがたりと減り、冬にはホテル自体が閉鎖されます。

主人公イーデスは通俗的な恋愛小説を得意とする小説家で、多くの読者を得ています。作品の程よい通俗性と主人公の性格のために、この設定は重要な役割を持ちます。彼女は、属するコミュニティの中で何かを「やらかした」らしく、しばらく逼塞しほとぼりを冷ます目的でイギリスの自宅からこのホテルにやって来たらしいことが序盤で明かされます。

季節は秋。もう夏の賑わいは消え、ホテルには数少ない常連客が残るのみ。イーデスは当初、鋭い観察眼でかれらを見る傍観者であり、自身が変わらない「ホテル」であるかのようです。何を「やらかし」てここへ来たのかの情報もごく小出しで、ホテルでたまたま出会った人たちだけでなく、身近な親しい人たちに対して、時に自分に対してすらも、その「傍観者」的態度ばかりを取る、自分が何をしたいのよくわかっていない、孤独を無自覚に生成しては閉じこもるタイプの人物にも思えてきます。オーナー曰くの「面倒くさい感じ」はこの辺を指したものではないでしょうか。
しかし彼女の一見冷静な観察眼も実は「変わらない」ものではない。こういう人に見えたある常連客の別の側面が明らかになる、といったエピソードが次々描かれ、それは発覚する新事実によるものでもあり、イーデスの思い込みが強く大きな視点変換を始終余儀なくされるからのようでもあり、読者にはもはや判別しがたいところが肝です。

冬が近づき、どんどん人が減り、移ろいゆくホテルと共に、実はイーデスが内省する中で起こっていた変化が輪郭を表し、最後に大きな決意の形を取ります。
「ホテルは変わらずそこに残る」のでしょうが、それは記号的な意味においてのみ。印象としては、イーデスの旅とともに消滅するかのような存在です。

テンペスト:「ホテルの印象が変化し、変化に連れて主人公の決意が現れると。どんな決意なのか、気になりますな」

前半が『面倒くさい』のに比して、読後感はなかなか爽やかでしたよ。本のカバー見返しの内容紹介には『深い孤独と向き合う』『現代の愛のかたちを探る』などの記述がありました。先ほど、程よい通俗性、と書きましたが、「孤独」「愛」とは、生物として根源的な意味から哲学的な意味、通俗的な意味まで多義なもので、たとえば主人公が「孤独」と口にしたその意味を、どう捉えて読み進めてよいか掴めないことがあります。本作『秋のホテル』では、恋愛小説の書き手であるという主人公の設定が、読み手の解釈の先導役にもなり目くらましにもなるというそわそわした距離感がまた、面白かったです。総支配人もいかがですか。オーナーも喜ぶと思いますが。

テンペスト:「読んでみたいですが、灯台が生えてるのをどうすればいいんでしょう」

待っていればそのうち……などと言っている間にこんな時間に!この灯台が何なのか、そして2冊目、ペーター・シュタム著『誰もいないホテルで』については、次回お話したいと思います。

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<暴風雨サロン担当者より>1冊の本、1本の映画、1人の人物などにスポットを当て、ホテル暴風雨の執筆陣がそれぞれ勝手に料理する「暴風雨サロン」の第2回です。今回のテーマは、特定の作品ではなく、広く「ホテル文学を語る」としました。「ホテル」が舞

ホテルを題材にした創作物は、本当にたくさんありますね。みなさまのお気に入りの「ホテル文学」は何ですか?

長文おつきあい、ありがとうございました。次回に続きます!バベルでした。


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