ホテル文学を語る:『秋のホテル』と『誰もいないホテルで』レビュー 後編

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バベル

みなさまこんにちは。司書兼コンシェルジュのバベルです。 前回に引き続き、アニータ・ブルックナー著『秋のホテル』とペーター・シュタム著『誰もいないホテルで』の二冊を同時にレビューしながらホテル文学を語るという欲張りなお話です。 さて、今回は二冊目の本について、そして本の上に現れた灯台について、当ホテルオーナーの残した謎のメモを頼りに読み解いて行きます。

『誰もいないホテルで』 ペーター・シュタム

「誰もいないホテルで」ペーター・シュタム著/松永美穂訳(新潮社)

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<メモその3>

『誰もいないホテルで』 ペーター・シュタム
面倒くさい感じの男性が主人公。普通に表玄関のドアから入ったつもりが、のちにドアが壊れていたことを知り、ホテルのドアとは言えない出口から去る。彼は変化しないようでいて、不変が内包する不可逆な喪失を読者は見せられる。

テンペスト:「また面倒くさい感じなのですか」

そうなのです。もはやオーナーが気難しいだけという気もしてきますね。本作は短編集なので、今回は表題作「誰もいないホテルで」のみを取り上げます。 こちらは文学研究者である主人公が、静かに論文執筆できる場を求め、友人に聞いた「何もない」湯治場のホテルに来るという話。かなり変わったホテルで、「ドアが壊れていた」「ドアでないところから出る」とのたとえからも推察できる通り、作中でもはや不可逆な変化をとげます。 『秋のホテル』でのホテルの変化が実は季節変動に過ぎず、真に変化するのは主人公であるのとは対照的に、『誰もいないホテルで』ではホテルが本当に変化し、それに対して主人公は一見あまり変化しません。「傍観者」のままなのです。自分のしたいことは自覚しており、行動しないわけではない人物ですが、どこか、村上春樹作品の主人公のように「やれやれ」が似合う流され方をするといった具合です。そこが「面倒くさい感じ」の所以でしょうか。 日常と地続きのつもりで訪れた場がどうにも奇妙な世界であった、というアプローチの作品は数多いですが、そこが、変わらないことをよしとされがちなホテルでありながら、かりそめの幻めいているという仕掛けです。

テンペスト:「今のお話だけ聞くと、『浅茅が宿』みたいですね」

なるほど、なるほど、『雨月物語』にある『浅茅が宿』や、落語の『牡丹灯籠』『野ざらし』など、美女が現れるが実は幽霊、という怪奇譚の形と似ています。小泉八雲の『耳なし芳一』も似た型ですね(『誰もいないホテルで』に幽霊が出てくるという意味ではなく、あくまでも「型」の話です)。中国の古典にもすでに原型があるこうした怪奇譚は、様々な変種があるとはいえ、異界に行きかけるが危うく元の世界に戻ってくる、というパターンが多いです。『誰もいないホテルで』も、主人公がただぼんやりと自分のしたことを振り返ったり、時には悔やんだりしながらも、何の変哲もない日常に戻りゆくのですが、実は傍観者のように過ごす彼の人生もまた不可逆であることが読者の目には際立つ、という力点の違いゆえだいぶ印象が違います。現代小説と起源の古い怪奇譚の違いでもありましょう。昔の人の人生はある意味で変化に乏しく単調、しかし社会や環境からの不可避な力で簡単に左右もされ、濃く、短かったとも言えます。『怪奇譚』を読んで「あ〜不思議だった、怖かった、面白かった」ではなく、人生の一回性を深く感じる要素は古い時代の人の方がたくさん持っていたかもしれません。


バベル:「って総支配人、何をしておいでですか!?」

テンペスト:「いやなに、あの本だけが特別なのか気になったもので、他の図書室の本もここへ広げてみたら、ほら、こんなことに」 バベル:「これは驚きました、どうなっているんでしょう?」

テンペスト:「本というのは読んでも無くならず、むしろ読まれれば読まれるほど、情報としては拡散します。しかも読んだ人の思念をからめ取って増殖するのですから、生き物のようですよね。たまにこうした形を見せることもあるのでは」

バベル:「そんなものでしょうか?しかし、こちらを先に見ると、中身が何の本なのか気になってしまいますねえ……」

テンペスト:「今や情報といえばデジタル。本もデジタル化されるかどうかが生き残れるかの一つの鍵のようでもありますが、デジタルデバイスはわずかな時間で陳腐化し、その速度は増すばかり。情報を視覚化し、ものに物理的に刻みつけた紙の本、むしろ石に彫りつけた石版なんかが、生き物たる本の生存戦略としてむしろ新しいのではと思うことがありますよ」

バベル:「なるほど、物質の存在感がある方がこうした思念も残りやすそうですしね……」 バベル:「さて話は戻ってこの灯台です。灯台に向かう足跡が見えますが、どこから入ったのかよくわかりません。足跡の主が乗ってきた船も見当たらない。そして、出て行く足跡がありません。ここへきた過程はわからないし、この先のこともわからないという『現在』を思わせる状況です。これは、灯台やホテルにとって『変化せず見守る普遍性』だけでなく『変化』も魅力となりうるという、新しいホテル文学観を表していると見ました」

テンペスト:「なるほど、面白い推理ですね。ですが私は常々、入った足跡と出て行った足跡、差し引きしても帳尻が合わないのがいいホテル、と思っておりますよ」

バベル:「なんと!してその心は?まさかホテルの中に突然人が現れたり消えたりするマジックが至上、という意味ではないですよね」

テンペスト:「それも愉快ですがね。人の心は差し引きゼロを好みません。『ただ行って、帰ってくるならばずっとここにいるのと同じ』などという極端な理由で旅をしない人など珍しいとしても、誰もがどこかしら帳尻が合わないところに魅力を感じはしないでしょうか。つまりは密かな変化を続け、自分自身にも変化を促すものに人は惹かれ、安心感さえ持つのではないかと。歩いているうちに計画になかったちょっとしたものを手放し、拾う。それがいい旅という価値観があるのでは」

バベル:「さすが総支配人、どんなに安定を好んでも、例えば100円を出して100円玉を購入する人はなかなかいないということですね」

テンペスト:「そうですねえ。帳尻といえば、入っていく足跡がひとつだけだからといって、灯台の中にいるのが一人とは限りませんよ。たとえば、この地球は巨大な密室と考えられていますが、実は日々小隕石が落ちてきて、一方で大気は散逸しています。それに、回収のあてのない探査機や衛星が宇宙に放り出されたり、宇宙からのお客様も意外と多いですからね」

バベル:「確かに、猫丸様のような方がいらっしゃいます。見る次元やスケールによって出入りはあったりなかったりしますしね。今回ご紹介した本の中のホテルを目指したいわけではありませんが、ホテルたるもの、「不変」ではなく「変化」しながら安心感を持っていただくのが大切という思いを新たにいたしました。オーナーもきっとそう思ったからこそこんな謎めいた灯台が残ったのでしょう。みなさまも、お気に入りの『ホテル文学』に触れて心に浮かんだ光景を読み解いてみるときっと面白いですよ」

テンペスト:「ホテル文学、だけでなく文学もまた、実はホテルのように、読まれることで変化するのかもしれませんね。オーナーの場合、単に灯台好きの密室ミステリー好きの病が、この本の読書中に発症しただけかもしれませんが……」

そ、それは思いつきませんでした。 実にありそうな話です。いやはや……。

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<暴風雨サロン担当者より>1冊の本、1本の映画、1人の人物などにスポットを当て、ホテル暴風雨の執筆陣がそれぞれ勝手に料理する「暴風雨サロン」の第2回です。今回のテーマは、特定の作品ではなく、広く「ホテル文学を語る」としました。「ホテル」が舞

上田秋声『雨月物語』は九遍のお話からなりますが、溝口健二監督の映画『雨月物語』は『浅茅が宿』がベースになっています。

長文おつきあい、ありがとうございました。バベルでした。


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