別訳【夢中問答集】第四十問 菩提心とはなにか? 2/2話

さて、それでは「真実の道心」とはいったい何か?
それは「無上菩提(最高の悟りの境地)」を求める心を起こすことじゃ。

それでは「無上菩提」とは何か?
般若心経などのお経の中に登場する「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」というのが即ちそれじゃ。

「阿耨多羅」とはサンスクリットの「アヌッタラー」を漢字に音写したもので、「これ以上はない」、つまり「最高の」という意味じゃ。

「三藐三」とはサンスクリットの「サムヤクサム」を漢字に音写したもので、「完全な」とか「正しい」といった意味じゃ。

お経の中で「無上道」という言葉が出てくることがあるが、これも「阿耨多羅三藐三菩提」のことじゃ。「菩提」を「道」とも訳すことがあるからじゃな。

この「無上菩提」というヤツは、どんな人間であってももれなく備わっているものであって、そこら辺のボンクラにはなくて、聖人だから十人分持っているという類いのものではない。

昔のものは古くて現在のものは新しいといった類いのものでもない。

……といったことを理解して疑わない。
それこそが「真実の道心」というものなのじゃ。

お経には「菩薩は初めから正しい悟りを求めて、何があろうとも動じない」と書かれておるのは、「菩薩というものは初心の時から無上道を目指すものであって、世間並みの名利を求めないのはもちろん、自分だけ救われればよいとも思わなければ、テキストを熟知するだけで満足することもない」という意味なのじゃ。

まぁ、この場合は「人間のポテンシャルを信じて疑わない」というだけのことであるので、それを応用する、つまり「生きとし生けるもののために活かす」ことができなければ本当の意味での「真実の道心」とは言えないのじゃがな。

涅槃経に「阿耨菩提は『過去に過ぎ去らない、現在から去ることもない、未来へ去ることもない』と書かれておるのは、「無上菩提=人間が生まれつき持っているポテンシャル」のことじゃ。

真言宗ではこれを「浄菩提心」と呼ぶ。

真言宗の経典である大日経には、「菩提とは何か? 『自分の心』こそが宝だと知ることだ!」と書かれておる。

そして大日経の解説本には、「『自分の心』が菩提だというのであれば、世界中の人たちは既に全員仏さまだということになりますが、実際にそうなっていないのは何故でしょうか?」という質問に対する「それが宝だということに気づいていないからだ。もしそのことに気づいておれば、ほうっておいても無上道は完成するだろう」という回答が掲載されておる。

「人間のポテンシャルを信じて疑わず、人々のために応用できる」というのでなければ、どれだけ熱心に修行したところで「オレ様の集中力は凄い! だからオレ様は偉いんだ!!」などとカンチガイしてしまうので、必ずや魔道に入ってしまう。

かといって「人間のポテンシャルを信じきれず、集中力も足りない」というのでは「このままでは永遠に苦しみの世界から逃れられない」という恐怖から、ますます道心から遠ざかってしまう。

もしも初心者にそういった気持ちが起こった時は、慌てず騒がず「いやいや私もまだまだ修行が足りないなぁ…… しょうもないこと考えてないで修業に集中!!」と大きく構えておることじゃ。

そして修行が完成した時、「なるほど、『真実の道心』というものは起きたり無くしたりするようなものではなかったのだなぁ」ということを知るじゃろう。

無行経に「もしも菩提を求めたならば、菩提は手に入らない。『菩提とはこういうものだ』と思い込んでしまうと菩提は遠ざかる」と書かれておるのは、つまりこのことじゃ。


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