別訳【夢中問答集】第六十四問 本分の田地にはどうやったら行けるの? 2/2話

仏法もまたそれと同じことじゃ。

「本分の田地」には聖・凡とか綺麗・汚いとかの概念はないにもかかわらず、遠い過去から連綿と続く「人間の根本的な愚かさ」という夢の中で、実在しない綺麗・汚い、聖・凡の姿を見てしまう。

「オレはダメ人間だ!」と思ったが最後、誰かに褒めてもらうためにあちこち奔走した挙句、うまくいかなくてガッカリし、「オレはイケてる!」と思ったが最後、世の中の全てを下に見てうぬぼれる。

万事そんな調子だから、「本分の田地」の安らぎなど信じられるわけがない。
そいつはまさしく、夢に振り回されて現実を見失っておるのじゃ。

例え「大きな夢」の理屈を知っておったとしても、本当の意味で醒めているのでなければ「オレってダメかも……」と感じて改善するための修行をしたくなった挙句に修行法や師匠たちの優劣を争ってしまう。

そんな中であっても「オレがダメとかイケてるとかは全て妄想だ」と信じることができるヤツは多少スジがいい。そういうヤツは輪廻も厭わなければ解脱も求めないからじゃ。

とはいえ、それをもって「オレはスジがいいんだ!」とか思いあがってしまうのは、また間違いじゃ。

円覚経には「人々は地・水・火・風の四大元素が寄り集まっただけのものを『自我』だとカンチガイし、感覚器官による六種の電気信号を『心』だとカンチガイしている」と書かれておる。

例えば眼球に異常がある人が、空中に花びらがチラついているように見えたり、月が複数に見えたりするようなものじゃ。

このカンチガイのせいで、人間はただもうワケもわからず輪廻転生を繰り返さざるを得なくなってしまっておる。

この「ワケのわからなさ」を、「根本的な愚かさ」という意味で「無明(むみょう)」と呼ぶ。

この「無明」というのは夢の中で見るものと一緒で、醒めてしまえばそんなものは初めからなかったとわかる類いのものじゃ。

首楞厳経(しゅりょうごんきょう)には「人間の本性というものは実に円満に完成したものだ。故に、自他の区別などない。つまり、個人とそれを取り巻く世界は同じものなのだ」と書かれておる。

言い方は違えども、大乗の仏教典には全て同じ趣旨のことが書かれておる。

だというのになぜ、それを信じることができずに身体や精神を酷使して自分の外側に向かって求めまわろうとするのじゃ?

一般大衆にとって吉凶というものは顕在化するまで気づかないものじゃが、占い師などが言うことを信じて用心しておれば、いつか納得できる時がくる。

「本分」などというものは外に求めて得るものではなく、みな生まれつき欠けることなく持っておるものなのじゃ。

それを日々駆使しながら暮らしているにもかかわらず、気づいていないだけなのじゃ。

仏さまや歴代の師匠たちはそれを憐れみ、実に丁寧に教えてくれておる。

たとえそれを直ちに信じることができなかったとしても、世間の占い師などの言うことと同じぐらい信じて用心し続けたならば、何らかの効果は必ずあることじゃろう。


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