今どきの学者の中にも「神我の見」に陥る者がある。
円覚経には「それは例えば水晶玉が周囲の色を映しているのを見て、水晶玉に色がついていると考えるようなものだ。究極の真理には色も形もない。それがたまたま身体や心に見えるからといって身体や心が実在すると考えるのはアホのやることだ。身体や心といったものは全て幻影なのだ」、と書かれておる。
永嘉大師は「心があるなどという考え方。それこそが法や功徳を滅ぼす一大原因なのだ!」とおっしゃった。
長沙和尚は「精神をほかのものと区別して考えようとするから悟れないのだ!」とおっしゃった。
初心者が座禅で心がゆったりひろびろとするのを感じて、「おお、これこそが『主人公』とか『本来面目』とか呼ばれる禅の神髄なのですね!?」などと考える。
昔の師匠たちはこれを「とんでもないカンチガイじゃ! 心のことを心で考えようとするな!」と叱ったもんじゃ。
円覚経に「ドロボウを我が子とカンチガイする」と書かれておるのはこのことじゃな。
ブッダは「世界は一心でできている。一心以外のものはないのだ」とおっしゃったが、仏教の中でもこの「一心」についての見解は宗派ごとに異なる。
いわゆる小乗仏教では「六識」、つまり思慮分別の機能のことを「一心」だと考えておる。
大乗仏教では「六識」の上にさらに「七識」「八識」を立てて、世の中の全てのものごとは「八識」によるものだとしておる。「一心」とは「八識」のことだという考え方じゃな。
さらにその上に「九識」を立てて、「全てのものごとはそこから生じている。だからブッダは三界一心と説かれたのだ」と主張したりもする。
小乗の修行者たちは六識以上の概念を知らないので、外界に接した際に心が動かされないことを至上の境地だと考えておる。
今どきの大乗の修行者の中に、「山を山と見て、水を水と見て、僧侶を僧侶と見て、俗人を俗人と見て、それらについて良し悪しの感情を抱かない」ことこそ本当の「心」だと思っているヤツがおるが、それは「六識」以前の問題であって、むしろ「五感」の話じゃ。
そんなものが本当の「心」であるハズがなかろう。
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