ダルマが来た意味 ~龍牙和尚編 5/5話(出典:碧巌録第二十則「龍牙西来意」)

雪竇和尚は、このエピソードに対して次のようなポエムを詠みました。

山奥の、よどんだ淵に眼がない龍が棲む。
禅板も座布団も使いこなせないのなら、いっそワシに渡してくれまいか。

さて、「澄みきった淵にイキのいい龍はとどまらない。よどんだ淵に獰猛な龍がいるハズがない」といいますが、このここで「眼がない」というのはいったいどういうことでしょうか?

また、「よどんだ淵」とはいったい何処のことなのでしょうか?

水がなければ龍は本来の力が出せませんが、イキのいい龍であれば水たまりの底でじっとしているのではなく、自ら天まで届くような大波を引き起こして空高く舞い上がるハズ。

雪竇和尚は、叩かれるとわかっていながら敢えて禅板や座布団を手渡した龍牙和尚を「「よどんだ淵」に踏み込んだ龍」になぞらえたのでしょうが、龍牙和尚は決してやられっぱなしではなく「叩くのは構いませんが、祖師西来の意はないですね。」と反論しています。

果たして雪竇和尚はこのポエムで龍牙和尚を褒めているのでしょうか? それとも貶しているのでしょうか?

翠微和尚は龍牙和尚の質問に対してヒントを与えるつもりで「禅板を取ってくれ」と言ったのに、龍牙和尚はそれに気づかないふりをして言葉通りに禅板を手渡しました。

このグダグダな展開こそが「よどんだ淵」なのですが、、要するに翠微和尚は「イキのいい龍」に籠をひかせることはできても龍そのものを乗りこなすことができなかったのです。
(雪竇和尚が「使いこなせない」と言っているのはそのことです)

ただ、雪竇和尚はこのポエムの出来に満足できなかったようで、次のようなポエムを追加で詠みました。

とはいえ、禅の真髄は禅板にもたれて座布団に座り続けるだけではつかめない。
夕焼け空にちぎれ雲が浮かび、青々とした山並みが重なり合いながら遠くまで続いている。
それこそが一番の見どころなんだ。

禅板や座布団は師匠が弟子に手渡す免許皆伝の印としても使われるものですが、死ぬほど苦労して修行した末に悟った人は、もはやそんなものを有難がったりしません。

雲は一日の終わりになると空のあちらこちらから西の山に集まってきて一塊りになると言いますが、雪竇和尚はその直前の状態が一番の見どころだと言います。

さて、そんな時、読者の皆さんならどうしますか?

また、「青々とした山並みが重なり合いながら遠くまで続いている」というのはいったいどんな境地のことでしょう?(文殊菩薩や普賢菩薩? それとも観音菩薩の境地?)

答えのわかった人、どうか私にご教示くださいませ。

<ダルマが来た意味 ~龍牙和尚編 完>

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