足利直義:そういえば碧巌録を焚書にした大慧和尚の一派は、「趙州無字(じょうしゅうむじ:「犬に仏性はあるか?」という問いに対して趙州和尚が「無」と答えたという故事)」みたいな公案は、その「まるごとそのまま」を検討すべきなのであって、指導者がヒントめかした余計なコメントを付け足すようなことはあってはならない」と主張しています。
しかし、先ほど「世間と折り合いをつける方法」のお話に出てきた中峰和尚などは、この公案を弟子に与える際に「いいか? 『なぜ趙州和尚は「無」なんて言ったのか?』についてよく考えろよ!」などとコメントをつけておられるとか。
・・・・・・そんなことしちゃっていいのですかね?
夢窓国師:昔の修行者が「究極の真実」を求める気持ちは、今とは比べ物にならないほど深かった。
だから心身の労苦や道のりの遠さなどをものともせず、道を示してくれそうな師匠のところに参じたのじゃ。
そして師匠はそんな彼らに対してひと言ふた言の声をかけるのじゃが、それはまさに極限までムダをそぎ落とした「そのものズバリ」なのであって、その言葉自体に意味があるわけではない。
センスのあるヤツはそれを聞いただけで「ああ、そういうことだったのか!」と悟る。
まさに肝心なのは「なんと言ったか?」ではなく、「なぜそう言ったのか?」なのじゃ。
その場ではわからないような鈍いヤツは、その得体の知れない「わけのわからなさ」に対して寝食を忘れて必死に取り組むことで一両日、あるいは数カ月、はたまた十年、数十年かけて悟ったものじゃ。
そして期間の長短はあるが、道心が堅固である限り、一生のうちに悟れないということはなかった。
まず「言われたことがわからない」、そして「なぜそんなことを言われたのかわからない」、さらに「それに意味があるのかどうかわからない」、続いて「師匠のことを信じてよいのかどうかわからない」と、次々に疑問が湧いてくる。
疑問の塊は雪だるま式に膨らんで、遂には「こうやって疑問を膨らませている自分はいったい何者なのか?」というところまでいってしまう。
これが「大疑団(だいぎだん)」と呼ばれるものじゃ。
そしてこの「疑団」が大きければ大きいほど、それが解けたときの悟りは大きなものとなるのじゃ。
というわけで、昔は師匠の方から「これから私が言うことをしっかり覚えて、公案として取り組むように!」などと言うことは決してなかった。
「私の言うことを疑ってかかれ!」と言うことも、「疑うな!」ということもなかった。
今どきの連中はといえば、過去生における修行の積み重ねが薄い上に究極の真実を求める気持ちもたいして深くないときておる。
だから師匠がよかれと思って言葉を与えても、その上っ面を撫でただけでわかったような気になってそれで終わりじゃ。
わかったような気にすらならないヤツに至っては「全然わからん。オレにはこの道は向いていないな」などと思ってすぐに諦めてしまう。
このままではあんまりだということで碧巌録のような公案集が編纂され、必要に応じて取り組むという方便が生まれたのじゃ。
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