この記事は連続ものの2回目です。
1回目はこちら つばな『バベルの図書館』と福永武彦『死の島』描かれなかった物語(1)
前回のあらすじ:つばな作のマンガ『バベルの図書館』と福永武彦の小説『死の島』、この2作を、共通テーマを軸にレビューするはずが、『存在の耐えられない軽み』とふざけてタイトルをパクりたいばかりに読んでみたミラン・クンデラ作『存在の耐えられない軽さ』にも類似テーマを感じて収拾がつかなくなる猫丸。果たしてこの先どうなる……?
どなたですか勝手に「あらすじ」書いているのは。
こんにちは。地球フィクション研究家、猫型宇宙人の猫丸です。
収拾がつかなくなるなんてことはありません。これくらいの脱線は、宇宙人としてはまだまだ遠慮しているくらいのものですのでご安心ください。では今回は脱線中心にお話しします。
ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』、再び
ミラン・クンデラ著『存在の耐えられない軽さ』
前回も書いたように、これはとても奇妙な視点を持つ物語だ。
語り手が「自分こそはこの小説の作者である」と名乗りを上げているのだ。
フィクションであることを作中で示す「メタフィクション」の一種だ。メタフィクションといえば、小説で進行中の物語がフィクションであることに、作者や登場人物が「気づいている」と匂わせる作品は少なくないが、これはそれどころの話ではない。「この人物をどのようにして生み出したか」と作者が作中で語り出す。つまり「どのようにこの小説を書いたかという小説」なのである。
考えてみてほしい。『小説の書き方』というタイトルの本を開いたのに、「昔々あるところに……」と物語が始まったら相当ビックリするだろう。
本作はその逆。小説の扉を開け、冒頭の哲学談義に戸惑ったものの、やっと登場人物たちが舞台に上がる。まずプラハに住む外科医のトマーシュ。トマーシュを慕ってプラハに出てくる田舎娘テレザ。トマーシュの愛人の画家、サビナ。サビナの愛人、フランツ。出てくるのはほぼ、重なり合う三角関係とその枝線に連なる人物で、裏表紙の紹介文にも書いてある通り「恋愛小説」なんだと納得できるストーリー。と、思わせて、実は「どうやってこの小説を書いたか」という告白なのだ。ビックリしましたか。私はした。
しかも「重さと軽さ」というテーマも読み進めると揺らいでくる。冒頭に「永劫回帰」を持ち出し、では人生は一度きりで繰り返されることはないから「軽い」のか?という問いを投げかけておきながら、「重さ」と「軽さ」の対立はあらゆる対立の中でもっともミステリアスで多義的だ、などとも言い、読者を煙に巻く。繰り返すから重いという簡単な話でもはやはないのだ。トマーシュのこの傾向は、テレザのこの行為は、サビナのこの選択は、果たして「重い」のか、「軽い」のか? 簡単にわかった気にさせてくれない。あらゆる「義務」を厭い、軽やかに生きるトマーシュが、内的な衝動に従って選んでゆく人生は次第に重くなるように見える。テレザの最大の拠り所であるひとつの「愛」は、手にして時が経つほどにその中身を曖昧に空虚にしてゆくが、そのうち別のもので満たされる。悲しみのような幸福のようなそれが、重いのか軽いのかは両義的だ。軽さと自由とを愛するサビナの心を捉えていたのも、必ずしも「軽い」とは思えない。
「重さ」「軽さ」と同様に重要なキーワードが「俗悪なもの」(「キッチュ」とルビが振ってある)だ。「キッチュ」というと、少なくとも現代ニッポンにおいては、安っぽく通俗的だが独特の愛嬌のあるデザインやもの、と理解されているが、それとは大分違う。「大勢の人の感情に訴え、涙を流させ、陶酔・高揚させるわかりやすく俗なもの」というような意味で作中で語られる。全体主義を支えるもの、一義的な解釈への圧力でもある「キッチュ」を作者は繰り返し批判する。
しかし、「私はいかにして小説を書くか」「一度きりの言葉をどう選ぶか」の宣言でもあるこの小説で、繰り返し語ることで重くなりゆく物語を紡ぐ作者の筆は「キッチュ」と正反対のものではない。作者がそれに自覚的でないはずもない。
作中にこんな言葉がある。
我々は忘れ去られる前に、俗悪なもの(キッチュ)へと変えられる。俗悪なもの(キッチュ)は存在と忘却の間の乗り換え駅なのである。
『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ著/千野栄一訳 集英社文庫 より
恋愛と人生とを描きながら叙情的な雰囲気がない本作だが、存在を繰り返し語る言葉は「俗悪なもの(キッチュ)」を逃れられない。作者の選び抜いた言葉を読んで立ち上がる存在のエッセンス、細部の鮮やかさは感動を呼ぶかもしれないが、そこから「俗悪なもの(キッチュ)」を取り除いた、忘れ去られる存在はとても軽い。そのこと自体を、書くほどに重くなる言葉を使って表現する、という矛盾の告白。
思うに、この作品は、「存在が耐えられないほど軽い」との解釈を示すものではなく、「存在がこれほど軽いとしたら耐えられる?」「『軽い』と言ってみたけど、でも本当に軽い? 何と比べて軽いの?軽いって何?」と問いかけ続けるものだ。
「それは重い」「こっちは軽い」「いや、今のなし、やっぱり重い」などと唸りながら読むのはなかなか乙である。
オイディプス式涙のダイエット物語
脱線の中の脱線になるが、作中でトマーシュがオイディプスについて書くというエピソードがある。「父を殺し母と交わるだろう」という神託を実現させないために行動するが結局それが成就する神話は、軽さを志して重くなるトマーシュの人生のようだ。
「軽さを志して重くなる」というと、まるで「痩せたくてダイエットしすぎてかえって太る」という現代の病である。
「軽さを志して軽くなったがなお重さを恐れている」「重さを志して重くなったが空虚である」を思わせる局面も描かれているが、「痩せればいいことがあると思って激痩せして病気になったがまだ痩せたい」「筋肉をつけたらモテるかと思ったらあんまり誰も褒めてくれなくてガッカリ」になぞらえることも可。
ダイエットやトレーニングにまつわるこれらの物語、『存在の耐えられない軽さ』改め、名付けて『オイディプス式涙のダイエット物語』を現代人が読んで涙を誘われるとしたら、「これぞ肉体美」「これぞ健康体」というマボロシの理想形、いわばひどく「俗悪なもの(キッチュ)」を心で共有しているからに他ならない。
実際は「太ることも痩せることも可能な流動的な肉体を持っている」という、ただそれだけ、耐えられなく軽い地球人類の存在の、瞬間的な体の形などそのまたごく一部だというのに。
といってもこれはほんの例え、この小説は、決して「不幸な人たちの不幸な物語」ではない。もっと複雑な重層に満ちていて、気楽に手に取れば取るほど「んん?」と読み返したくなるギャップが愉快なのでぜひ鼻歌歌いながら手に取ってほしい。
そして、描かれなかった物語
さて、脱線の上にさらに脱線してふざけたところで少し軌道修正したい。
『存在の耐えられない軽さ』の中で作者は「私の小説の人物は、実現しなかった自分自身の可能性である」と書いている。
考えてみれば小説家としてごく普通の見解だが、この作者が言うと、「描かれなかった物語を描く物語」という矛盾に満ちた仕掛けの自己告発みたいで面白い。
地球のフィクションを愛好し、読んできて思うのは、地球人類という存在自体がフィクションを含んでいるということだ。人間の中には事実・虚構・事実・虚構・事実・虚構……という、タマネギの皮のような重層がある。虚構を暴き真実を露わにしようとしたところで、それはまだもう一皮剥ける外皮にすぎず、どんどん剥いていったらなくなってしまうのではないか。つまり地球人の本質は「透明人間」または「無」。クンデラがどれほどの質量を「耐えられない軽さ」とするのかわからないが、「無」どころかありもしない重層を剥きすぎてマイナスの質量にすらなり得ると思われる。恐ろしき地球文化、「借金の利息を払うために借金」の手法を用いればかなりいける。地球人よ、思っている以上にその存在は「軽い」のだぞと言いたい。
人間が「虚構と事実の重層でできている」という自覚のある人は「描かれた物語」の奥に「描かれなかった物語」を見るだろうし、その中でも限られた人間が、順列組み合わせでランダムに生成も可能な(ボルヘス『バベルの図書館』の蔵書のような)、数限りない「描かれなかった物語」から優れたものを拾い上げて形を与える。さらに限られた人が、描かれたものと描かれなかったもののあわいに光を当てて見事に美しい物語を作り出すのだ。
その好例、つばな『バベルの図書館』、福永武彦『死の島』について、本線に戻っていよいよ次回書きたい。
ちなみに、つばな作『惑星クローゼット』も面白い。現在1巻が既刊で、2巻がもうすぐ出るので鼻息も荒く楽しみにしている。
猫丸の地球虚構研究、いかがでしたでしょうか。
次回もどうぞお楽しみに。
前回ご紹介した、ホテル暴風雨恒例「不思議なお花見」ですが
花が終わった後の楽しみもとても多いのです。例えばこちら!
*間違い探しの答:皿の上に用意してある、目玉焼きの付け合わせが変わっています。
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