絵本の家 小松崎敬子社長第2回

小松崎敬子社長のインタビュー第2回です。社長になるつもりなどなかった小松崎社長がなぜ社長になってしまったのか、そして27年が過ぎたいま、社長にとって何が一番大事だと考えているかをお聞きしました。


ちょっと手伝うつもりが社長になって
株式会社絵本の家 小松崎敬子社長

小松崎敬子社長

「絵本の家」がスタートしたとき、私はちょうど産休のあとでした。また、ちょっと手伝ってほしい、と声がかかって。本当にちょっとのつもりだったんですよ。それが、いつのまにか32年(笑)。

社長になられたのはどんな経緯だったのでしょう?

「経理をやってたんですが、立ち上げたばかりの会社にはいつもお金がないんです。みんなにお給料払えないこともあって、それがすごく嫌で、どうにかしたいと思っていたところに、信用金庫のお兄さんがふらりとやってきました。
融資しますよ、担保さえあれば、とじつに軽くおっしゃる。バブルの最後の方でまだどんどん貸したい時期だったのね。
当時住んでいた父所有の家の話をすると、それでいいですよって。
父に相談したら細かいこと何も聞かずに「いいだろう」と一言。
それでまとまった額を借りて、少し回るようになりました。
でもそのおかげで私は手を引けなくなったんです。

何とか回るようになっただけで順調にはほど遠かったから、会社を作った先輩たちは順に辞めていき、担保提供している私が引き継ぐしかなくなったんですよ。
そのときから女性だけの会社になりました。男性はみんな辞めちゃったから。
私が積極的に立ち上げて、女性を率いてがんばっていると思われがちなんですが、現実はずいぶん違います。降りられないからやるしかなかった。そしてそのまま27年、今に至る、というわけです」

「主だったメンバーが抜けて途方に暮れましたよ。まだ40歳くらいでした。
英語も得意じゃないし、営業経験もないし、みんなを出張に行かせたけれど私は行っていないから海外の出版社に顔ができていない。
悲壮でしたね。目白駅から歩いてくるとき憂鬱で顔を上げられなかったのを覚えています。今も同じ道を歩いているんですけどね、そこの道。

それでもなんとか続けられたのは、まだ時代がぎりぎり上向きのころでモノが売れたからでしょう。
あとはもちろんスタッフのおかげです。
自分ができないなら、できる人を雇う。うちにいいところがあるとすればそこかもしれない。うちのスタッフはみんな私より優秀ですよ、それぞれの面で」

優秀な人をどうやって集めるんですか?

「私が集めるんじゃないの。絵本が集めてくれる。
世の中には洋書絵本が好きな人たちがいます。でも絵本を扱える仕事はとても少ない。うちくらい世界各国の絵本を見られる職場ってほとんどないと思います。
これは好きな人にとっては代えがたいことなのでしょう。だから優秀な人がたくさん来てくれます」

現場の業務はそれぞれ得意なスタッフに任せる。では社長の仕事はなんでしょう?

「責任とること。それに尽きます。会社のしたこと、スタッフがしたこと、どんなことでも全ての責任は私にあります。例外はないんです。
今そこがないから全てがずれてるんじゃないかしら。ニュースを見ているとおかしなことがたくさんありますね。政治家でも財界人でも責任をとるべき人が責任をとらない。
仮にその人だけが悪いのではないとしても、責任とる人は必要なんですよ。誰が決めて誰が責任とるのかをはっきりさせて、それを下地に進めていかないと。
みんな横並びで責任うやむや、というのは一番ダメ。
おや。とつぜん話が大きくなりましたね(笑)」

小松崎社長のインタビュー、19日(月)更新の第3回へと続きます。第3回では海外絵本を扱う仕事の面白さと難しさを具体的にうかがっていきます。どうぞお楽しみに!


小松崎敬子(こまつざきけいこ)
昭和23年、母の実家の逗子で生まれる。4人兄弟の3番目。
2歳の時に世田谷区祖師谷に戻る。
祖師谷小学校、鷗友学園女子中・高等学校、学習院大学経済学部卒業後、
赤ちゃんとママ社、長沼弘毅氏の秘書を経て、ほるぷ海外事業部で海外絵本に携わる。
53年、結婚。
ほるぷ時代に上智社会福祉専門学校に通いカウンセラーを目指すが、絵本の仕事を続ける。
59年、長女出産。絵本の家の設立に参加。平成1年、代表取締役となり現在に至る。


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