【 死者18万人 】
我々がいまマスクごしに呼吸している2020年。この年はまだ半分も経過していないが、おそらくは人類史にとって「COVID19パンデミックの年」として永遠に記憶されてゆくのだろう。4月22日(水)夜の時点で、COVID19による死者は世界中で18万人(AFP集計)を突破した。18万人!……この途方もない死者数をイメージすることなど、もはや誰にもできない。立川市住民(18万905人/昨年度10月)がこの感染症で消えてしまったなんて、誰が想像できようか。この18万人のじつに3分の2に近い11万2848人が、欧州の死者数である。
…………………………………………………**
「まあ今回も欧州はウィルスに痛めつけられているけどね」とフィレンツェ在住の友人画家は言った。「……しかしイタリアにはペストの記憶があり、宗教という心のよりどころがあるように思う。ぼくが日本の将来を心配するのはそこなんだよね。日本にはペストの記憶もなく、宗教もない」
「つまり記憶もなければ宗教もないから、将来は危ういと?」
「そんな国がウィルスにやられて国家的に緊急事態宣言を出したなんてのは、欧州じゃちょっと例がない」
「そういえば君はカトリック教徒だったな」
「まあそうだ。イタリアはカトリック教国だよ。キリスト教の倫理観というか、そういうものをちゃんと守って生きている人が多い」
「ふうん。カトリック教国ね。……日本人女性がローマに旅行に行くとやたらにチャラオが出てきて口説かれる、なんて話とはどうもイメージが違うな」
「愛をささやくのは教義に反しない。イタリア人は愛と歌だよ」
「(爆)……そういえば〈コレリ大尉のマンドリン〉に出てきたニコラス・ケイジもそんなこと言ってたな」
「ああ、〈コレリ大尉のマンドリン〉ね。あれはいい映画だね」
「それにしても〈ペストの記憶〉ねえ。この表現はなんか怖いね」
………………………………
【 ペストの記憶 】
ペスト。別名黒死病。英語ではブラック・デス(Black Death)。感染者は内出血により皮膚が紫黒色になったことから、このおぞましい名がついた。ペスト菌による感染症である。古来から複数にわたりパンデミックとなり、欧州ではしばしば暗黒時代の到来となった。特に14世紀のパンデミックではなんと1億人の死者が出たらしい。当時の世界人口は4億5000万人だったので、人類の4人から5人に1人が死んだことになる。イングランドやイタリアでは国民の8割が死者となった。8割!
「10人いたら8人が死んだ。その時代に欧州に生きていたら、まあこれほどの恐怖はないだろうね。この時、欧州人はイヤというほど感染者や死者のムラサキ色を目にしておののいた。今に至るまで欧州人がムラサキ色を不吉な色、悪魔の色として毛嫌いするのは、じつはこれが原因じゃないかとぼくは思ってる。とにかくバタバタと死んでいく。これはもう神にすがるしかない。これは神の怒りだ。人間の犯した罪の懲罰だ。そう考えてひたすら神に許しを請うしかない。それでもバタバタと死んでいく。すると今度はどうして神は救ってくれないのかという疑問や怒りになっていく」
「それが記憶として残っていると?」
「恐怖が蔓延する混沌というか、そういう極限状況の中から絵画、文学、詩……そういうものが恐怖時代の反動みたいにどんどん生まれてくる。平和でのどかな時代には、そんなことはまず起こらない」
「なるほど」
「ぼくはやはり画家として〈ペストの記憶〉をまざまざと見せてくれる絵画に興味がある。……フィレンツェから1時間ほどでピサに行けるんだけどね。斜塔もいいけど、カンポサントに行くとものすごいフレスコ画を見ることができる。いかに人々が理不尽な死を恐れたか、神に救いを求めたか、巨大な壁画でそれをまざまざと見ることができる」
…………………………………………………**
カンポサントとは墓地のことである。しかし通常の墓地のイメージとは違い、巨大な壁画を見せる壮麗な美術館といった雰囲気。床石に描かれた長方形の装飾はなにを意味するのだろうと思ってよく見ると、墓であることに気がついてギョッとしたそうだ。見学者は床石ではなく墓石を踏みながら奥に進むのだという。
「それは死者の冒涜にはならんのか?」
「よくわからん。欧州の教会じゃよくある光景だよ。カンポサントは空襲にあってね。第二次大戦の連合軍の空襲だよ。建物自体が壊滅状態になった。その時の写真も展示されてるよ。そりゃもうひどいもんだよ。それをイタリアは戦後にコツコツと修復した。本当によくやったと思う。戦争というのはこんなふうに建物とか都市をガンガン破壊するので、悲惨な記録として残しやすい。しかしペストは建物も都市もこわさない。ただ人間だけを殺しまくる。棺桶がズラッと並んで、墓場がどんどん増えて、まだ生き残っている人々の表情がどんどん暗くなっていく。その恐怖、その悲しみをどう残していくのか。……これはもう絵画とか文学とか演劇とか、そういうものしかない。日本にはそういうのがない」
「まあそうだろうけどね。時代が違うよ。いまは医学も科学もペスト・パンデミックの時代からずいぶん進化してる。電子顕微鏡で〈コイツがそうか〉とウィルスの姿をはっきりと見ることができる。〈コイツが体内に入ると感染なんだな〉とわかってる。悪魔はキリスト教の産物だろ?……日本じゃ悪魔が人々を殺しまくってるなんて誰も思わない。それに君は日本には宗教がないなんていうけど、そんなことはない。お寺も神社もたくさんある」
「確かに。日本は〈欧州とは全く違う宗教観で生きている不思議な東の果ての国〉みたいな感じで見られてる。興味津々というか、そういう目で日本を見ている欧州知識層も多い。しかしこれから先、ウィルスのパンデミックで日本がボコボコにやられた時にね、〈日本人の負の側面〉が出てこないか、ぼくは不安だね」
「面白いこと言うねえ。日本人の負の側面?」
「ああ、うまく言えないけどね。どの国家、どの民族、どの宗教にも〈負の側面〉があるように思う」
…………………………………… 【 つづく 】
…………………………………………………**
魔談が電子書籍に!……著者自身のチョイスによる4エピソードに加筆修正した完全版。amazonで独占販売中。
専用端末の他、パソコンやスマホでもお読みいただけます。