【 魔談503 】モンマルトルの画家たち(4)

【 予想的中 】

店長の予想は当たった。
「あなたと同行するはずだった御夫婦ですが……」
「やはりキャンセルですか?」
ちょっと唖然としてしまった。ひとりだけのツアー?
「……しかし出発日までに誰かが申しこむという可能性もありますよね?」
「そうです。お申し込みは出発日の5日前まで可能です」
「いよいよとなったら、ひとりで行くことを覚悟しておけと……」
「まあ、そういうことです」
彼は笑っていた。つられて私も笑ったが、暗澹とした不安はぬぐえなかった。

「初めての海外旅行にしては、なかなかヘビーな体験になりそうです」
「しかし私からこう言うのもなんですが……」
彼は私の表情を注意深く観察していた。
「あなたなら大丈夫でしょう」
「どうしてそう思うのです」
「相手次第では、ひとりのツアーをお引き止めすることもあります」
「なるほど。ほめられた、ということにしておきましょう」

【 長距離電話 】

日常生活に微妙な緊張感が追加された。書店に寄って「パリ旅行ガイド」を買ってきた。文具店に寄って小型の手帳を1冊買い、この旅行における準備から記録に至るまで、一切合切をその手帳に書きこむことにした。「初めての海外旅行なんだぜ。もう少しワクワクしたっていいんじゃないの?」と他人事のように思ったが、ワクワク気分は一向に訪れてくれなかった。まるで出張のような気分で私は淡々と準備を進めた。

11月に入り、街ではインフルエンザが流行していた。旅行直前に風邪などひいてしまったら最悪だ。なるべく外出は避け、やむなく外出する時はマスクを着用した。居酒屋での「ひとり飲み」もやめた。私の場合、なぜひとりでも居酒屋に行きたいかというと、炭火で焼いた焼き鳥が好きだからだ。「当分、焼き鳥は我慢だな」と思った。食事は全て家でつくるようにした。喫茶店に行くのさえ控えた。

ふと気がついた。これは国内旅行じゃなく海外旅行だ。12時間も乗る飛行機が墜落する可能性だってゼロじゃない。
「墜落の可能性を考えるなど縁起でもねえな」と苦笑しつつ、念の為、両親には知らせておいた方がいいだろうと思った。正直、ちょっと面倒くさい気分だった。「誰にも告げずに10日間、日本から消える。日常生活を強制的に中断させる」といった感じの旅行にしたかった。
数日間悩んだが、やはり知らせることにした。電話ではなく手紙を書いた。久々に便箋を出してきた。ブルーブラックの万年筆を使うのも、本当に久々だった。

手紙を読んだ両親は別々に電話をかけてきた。まだスマホもガラ系もない時代である。自宅にいた時に有線電話のコール音がした。「ほうら来た」と思った。父からだった。
「そうかお前はまだルーブルに行ってなかったのか」と彼は笑った。「1万円を送金するからな。向こうでうまいワインでも飲んでこい」
父との会話は1分ほどだった。まるで大阪にでも行くような軽いノリだった。

その数時間後に母から電話が来た。最初の声を聞いた瞬間に「ああ心配している」とすぐにわかった。父とは違い、母からの質問は細かかった。
誰かと一緒に行くのか?
どうして今の時期に行くのか?
どうして急に思い立ったのか?
お金は十分に用意できるのか?
お前はフランス語はどの程度話せるのだっけ?

母親というのは本当にありがたい。いかなる時でも、まずは私の身の心配、私の心情の心配をしてくれた。しかしMacのことや将来の不安などを話すわけにはいかない。
「一人で行くのだけど、ツアーだからね、大丈夫」と私は言った。意識して快活な声を発した。
「これから先、フリーでがんばって生きていくためにね、今のうちにちょっと遊んでおこうと思って」

母は受話器の向こうで少し黙った。「ああ、疑ってる」と私は思った。
母親というのは本当に怖い。どれほど私が取り繕ったところで、私の声音から微妙な緊張を察知したのかもしれない。父が電話でなにを言ったのかを聞き、2万円を送金すると言った。

「向こうはお人形さんみたいにきれいな女の人がぎょうさんいてはるのやろな」
これには笑った。
「さあ、どうだろうね」
「クラッと来て、向こうで恋人なんかつくったらあかんえ」
これには爆笑した。
「向こうのきれいな人は、日本人なんか相手にしないよ」
ざっと20分にわたる長距離電話の受話器を置いて、ため息をついた。背中にいっぱい汗をかいているのがわかった。

【 つづく 】


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