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今回から「脳科学魔談」と題したシリーズものの魔談をやろうと思う。
御存知のように最近の脳科学の進展により、人間の脳は右脳と左脳でその役割分担がかなり大きく異なっていることが明らかにされている。さらに研究の成果というよりは突発的なトラブルや先天的な異常など「普通じゃない」状況で、「右脳はこんな役割をしているのか」「左脳はこんな働きができるのか」といった従来の我々が漠然と抱いてきた「脳のイメージ」を覆すような脅威的な能力を示すことがある。そうした話を数回のエピソードに分けて雑談調で語りたい。例によって脱線暴走し筆者好みの勝手な映画談に走ってしまう可能性が十分に予想されるが、そこはそれ、これは学術論文ではなくただの魔談なので、笑って許していただきたい。
その予定を当ホテルオーナー「風木一人」氏に伝えたところ、彼は「大変楽しみです」と大いに興味を示し、「……確かに脳の中には魔が潜んでいます。というか魔は脳の中にしか存在していない可能性すらあります(笑)」と返信してきた。じつに同感。さすがは風木氏。
怖がる心、「気味悪い」と嫌がる心、「そういう話はちょっと……」と敬遠する心。そうした心の働きがなければ、魔は存在しない。それは右脳か左脳かということになれば、「もちろんそれはわたくしの最も得意とするフィールドです」と言って、笑顔の右脳が一歩前に進み出てくるのかもしれない。「そんなバカげた感情などいちいち相手にしていられるか。俺は論理的に忙しいのだ。では失敬」と言って左脳はさっさと退場するのかもしれない。かように右脳と左脳は役割が違うようである。
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前置き雑談はさておき、本題。今回のエピソードは「左脳ダウン」。左脳のトラブルにより、世界的に有名になった女性の話である。
ジル・ボルティ・テイラーと言えば、脳科学に興味のあるかたは「ああ、脳卒中体験で有名になった学者ね」とすでに御存知の読者もきっといるだろう。ジルは37歳の時に脳卒中になった。そのトラブルで非常に特異な体験をした。しかもその時点での彼女は、ハーバード大学で脳神経科学の専門家だった。脳科学者だったのだ。ジルの研究にとってそのトラブルはまさに「自らの身体に提供された奇跡的な研究情報」だったと言える。ジルはその瞬間、「オー、マイゴッド!」と呟いたのかどうか知らないが、これはまさに彼女にとって「神からの贈り物」と言えるかもしれない。
脳卒中に襲われて喜ぶ人はいないが(いるはずないが)、唯一、「脳卒中になって世界一喜んだ人」という意味でも、ジルは人類史に記録されるべき存在かもしれない。
これがもし出版社に持ち込んだ小説のプロットだとしたら、どうだろう。編集者はきっと「そんな都合のいい話があるか」と言って笑い飛ばし、相手にしないだろう。まさに「事実は小説よりも」である。次作に苦しむファンタジー作家が着想を得るために森を徘徊し、道に迷ったらしく行方不明となり大騒ぎとなり、翌日に救出されて「異世界に行ってきた!」と叫ぶような話だ。
実際にジルに関する記事をサイエンス雑誌やネットで調べると、(彼女がこの事件をきっかけにあまりにも有名になったせいか)「やっかみ半分だなこれは」と苦笑してしまうような記事や評論が多々ある。中には「証拠が残っていない以上、この話は限りなく彼女の幻覚が作り上げたファンタジーに近いという分析もできる」と述べている科学者さえいる。
ともあれジルを一躍有名にした著書「奇跡の脳」をよく読むと、その体験はともかく、彼女が脳卒中になったのは「ある種の必然性」があったことに気がつく。しかしこの件は本題ではないので、このエピソードの最後に少し触れるとして……まずは今回の話の核心である「特異な体験」の話。
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1996年12月の朝、ジルの左脳は血管が破裂した。一命はとりとめたものの、彼女の左脳はかなり深刻なダメージを受けることになった。その後のリハビリ期間はなんと8年。しかし発症直後から彼女は左脳機能の後退をじつに冷静に観察し、驚くべき体験を語ることになった。あたかも臨死体験を語る人のようにジルは「奇跡の脳」で詳細に語っている。ここではそうした描写の中で、筆者が特に興味を有した部分を紹介したい。
(1)自分の体の境界がわからない。
これはビジュアル的に非常に興味深い話である。自分の体の輪郭が(左脳の機能後退につれて)わからなくなっていったというのだ。「個体ではなく流体のよう」と彼女は表現している。自分がどこから始まってどこで終わっているのか分からない。周囲の空間、空気の流れ、そうした状況に完全に溶けこんでいったと話している。思わず「幽体離脱」という言葉が浮かんでくるような話だ。あるいは「千の風となって……」を彷彿とさせるような話だ。
(2)宇宙と一体化。
こうした現象、「体の輪郭がなくなる」→「体は周囲の空間と渾然一体」→「体がなくなることにより、意識はどんどん拡散」→「ついには宇宙と一体化」という経過らしい。じつに面白い話である。繰り返しになるがこれは臨死体験を語っているのではなく、「左脳のスイッチが切れたらこうなった」という話なのだ。
……………………… ……………【 つづく 】
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