【 魔の塔 】クレオパトラの針

【 オベリスク 】

このところ魔談は塔にこだわった話を続けている。先週は月まで飛んで「Google Moon」で(UFO探しに夢中のマニアの間で)話題の「月の塔」を語った。この謎の5600mタワーについては諸説紛糾している話をした。宇宙船アクセス説、宇宙船ワープ説、古代遺跡説など(SFマニアも巻きこむ勢いで)なかなかに興味深いのだが、筆者は「ただの記念碑じゃないの?」という新説を唱えて終わりとした。
じつは上記の「古代遺跡」と「記念碑」、この2つのキーワードを見てふと思い出した「塔」がある。

「オベリスク」は御存知だろうか。古代エジプト時代に建てられた記念碑である。神殿建築物のひとつとして建てられた。先端がとんがった角材のような建造物で、年配の人なら「方尖柱」(ほうせんちゅう)と聞いて「ははあ、聞いたことがある」と思うかもしれない。私も夏目漱石とかその時代の日本文学で、この「方尖柱」という言葉を見た記憶がかすかにある。
オベリスクはエジプトだけではない。現代の欧米では大きな広場の中央にドーンと建てて、その地域を象徴しているケースが多い。

ちょっと面白いのは、この「オベリスク」の語源である。古代エジプト人はそうは呼ばなかった。「テケン」と呼んでいた。保護とか防護という意味だったらしい。ところが後の時代になってギリシア人がこれを見て「オベリスク」(串)と呼んだ。なんのことはない「団子の串のように細長いものがドーンと建っている」というただそれだけの意味であって「おごそか」な雰囲気は微塵もない。ギリシア人は冗談でこんな名前をつけたのだろうか。あるいは彼らにとっては、他宗教の建築物など「どうでもいい」という「上から目線感覚」のネーミングなのかもしれない。

ま、それはともかく「記念碑」といい「地域の象徴」といい、あまりにも当たり前のことだが、オベリスクは建てられた場所にずっと建っていることが、その重要な役目である。
「クレオパトラの針」と呼ばれるオベリスクが、かつて2本、エジプトに建っていた。ところが2本とも今はそこにない。1本はロンドンに。もう1本はニューヨークにある。21mの高さがあり、224トンもの花崗岩の塊を、こともあろうに、海を越えてロンドンとニューヨークまで運んだのだ。
というわけで今回は「19世紀の英国」を、次回は「19世紀のアメリカ」を。それぞれ非難をこめて、このじつに馬鹿げた大輸送を語りたいと思う。

【 ロンドンのクレオパトラの針 】

さてロンドン。英国がお好きでロンドンに精通している人は「ハンガーフォード橋の近くに建ってる塔」と言えば「あ、あれね」とすぐにわかるようである。なにしろ高さ21m。まさに「針みたいな塔」がドーンと建っているのだから、近くまで行けばすぐにわかる。

この「クレオパトラの針」は紀元前1450年ごろに建てられた。表面には「ヒエログリフ」と呼ばれるエジプト特有のレリーフが彫られている。ちょっと面白いのは、そのレリーフが彫られたのは「建ってから200年後」らしい。つまり200年間もの間、この花崗岩の塔はなんのレリーフもなくただドーンと建っていたのだ。それはそれでシンプルな美しさを保っていたのかもしれないが。

さらにその後、このオベリスクは数奇な運命をたどる。
紀元前12年、クレオパトラはオベリスクを移動させた。もともとは「ヘリオポリス」に建っていたのだが、「アレクサンドリア」に移動させたのだ。しかし当時の移動工事に問題があったらしく、オベリスクは徐々に傾き、ついに倒れてしまった。しかもそのまま放置され、徐々に砂に埋まってしまった。

さて時は流れ、1819年。当時、エジプトを統治していたムハンマド・アリーは戦勝記念だかなんだかで英国になんかプレゼントしたいと思ったらしく、なんとこのオベリスクを贈りたいと言い出した。その動機の背景はよくわからないが、無茶苦茶な話だ。1900年間、砂に埋まったままの自国の古代遺産を英国にあげるというのだ。いったいどういう神経なのだろうと思うが、ともあれ英国はいったんその気になったものの、これを砂から掘り起こしてロンドンまで運ぶコストを考えると、当然ながらとんでもない金額となる。辞退した。

ところが、さらに時が流れ、1877年。その金を出そうという人物が出てきた。ウィリアム・ジェームス・エラスムス・ウィルソン。著名な解剖学者で皮膚科医なんだそうである。「医学に専心しておればいいものを」などというと彼は「余計なお世話だ」と怒るだろうが、ともかく金は出そうというのだ。

かくして砂に埋もれたオベリスクを掘り起こして、ロンドンまで運ぼうということになった。長さ28メートル・直径4.9メートルの巨大な鉄の筒が製造された。まるで「巨大な鉄の棺桶だ」などと思うのは不謹慎だろうか。
ともあれその巨大な筒は「クレオパトラ」と命名された。その中にオベリスクを入れ、それを海に浮かせ、船でひっぱってロンドンまで曳航しようとした。

実際はその曳航途中で、嵐に遭遇して船が転覆した。乗組員6人が行方不明となり、「クレオパトラ」筒も流されて行方不明になった。英国人号泣の大スペクタクル映画になりそうな話だが、ともあれ(その嵐で海底に沈んだと思われていた)漂流中の「クレオパトラ」筒は、4日後にスペインのトロール船が発見した。
トロール船員たちがこれを発見した瞬間というのは、さぞかし驚いたことだろう。見たこともない新型の潜水艦だと思ったかもしれない。

(1877年といえばまだ潜水艦は存在しない時代だが、その7年前の1870年、ジュール・ヴェルヌは小説「海底二万里」を発表している)

かくして故郷から移動させられた「クレオパトラの針」は倒れ、そのまま2000年のあいだ砂に埋もれ、その後掘り起こされ、巨大な鉄の筒に挿入され、海に浮かんで輸送され、嵐に会って漂流し、散々な目にあってロンドンまで運ばれたのである。

テムズ川河口に到着した日、近くの小学校は休みになったそうである。学校の先生は小学生にどのように説明したのだろうか。
「みなさん、エジプトのえらい政治家が、自分の国の古い遺跡を私たちにくれるんだそうです。でも運ぶのがそれはもう大変で、そのお金を出したのは、この英国のえらいお医者なんですよ。ここまで運んでくるのに6人も死んでます」

* クレオパトラの針・前半 *

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