【 ギネス 】
うっすらと笑みを浮かべた愛美は無言で椅子を引いた。黒いエナメル質のリュックを背中からはずし、椅子の背もたれにぶらさげた。手に持っていたF4のスケッチブックを椅子の背もたれに立てかけ、私の正面に座った。この落ち着きはらった態度はどうだ。これじゃ誰が見たってこの店で待ち合わせをした男女にしか見えないじゃないか。
彼女の胸中はわからなかったが、私は意表を突かれて動転していた。……これはどう見たって偶然じゃない。さては尾行したな。……まずいな。まずい状況だ。これは絶対に勘違いされるぞ。……こんなところを学校関係者に見られでもしたら。……そもそもゴスロリは目立つんだよ。わかってんのかこの娘は。カフェバーでゴスロリ相手にビールなんか飲んでる男は悪い男に決まってるじゃないか。
様々な思いが次々に胸中をよぎったが、そのどれを言葉にしたらいいのかわからなかった。結果、私は言葉を失って黙っていたが、たぶん当惑の表情で彼女をじっと見つめていたのだろう。その表情が彼女に若干の優越感を与えていたのかもしれない。
フライドポテトとギネスが運ばれてきた。
「私もこれを」
白い人差し指でギネスを示し、うなずいたマスターがカウンターの方に戻っていく背中をチラッと見届けてから、再び私の方に向き直った。私はグラスを見た。目の前にギネスの小瓶があり、ラベルはちゃんと私の方を向いていた。ギネス専用のグラスはギネス専用のラバーコースターの上に置いてあった。その自信に満ちた堂々たるロゴを目の前に3つも並べられて、「さあ楽しみなさい」と誘われた気分になった。
好きなロゴのおかげで気分はやや落ち着いた。小瓶を手にしてグラスに注ごうとしたら、愛美の白い手がさっと伸びてきた。彼女は無言で私の手から小瓶を奪い、両手で小瓶を支えるようにしてグラスに注いだ。小瓶の支え方もグラスに注ぐ動作も手慣れたものだった。「ははあ」と私は思った。この子、こういう店でバイトした経験がきっとあるんだな。
「ありがとう」と一言礼を言い、私はグッとギネスを喉に流しこんだ。このような状況であろうとも、ギネスは期待どおりのうまさだった。やや空腹だったこともあり、ギネスは迅速に私に心地よいホロ酔いをもたらしてくれた。情けない話だが、ギネスの力でもうなにもかもどうでもよくなった。しかし言うべきことはちゃんと言っておかねばならない。
「もし学校関係者に、いまのこの状況を聞かれたりしたらだね」
「わかってます」と彼女は即座に言った。
「私が追いかけて行ったのだとちゃんと言います。お店に入ったのを見て、私も入ることにしたのだと言います」
ここまで言われてしまうと、追加してなんか注意することがバカバカしくなってきた。私は小瓶の残りを全部グラスに注いだ。今度は自分でやった。彼女のギネスが来たので、もう1本の追加をオーダーし、彼女のグラスにギネスを注いでやった。ちょっと驚くほどいい飲みっぷりだった。グラスの半分ほどを一気に飲み、コースターの上にトンと置いた。
「どうしてもあの話の続きをしたくて」
「だろうね」
「聞いてくれますか?」
「もちろん聞くよ」
愛美はケルト十字架が輝く黒い写真ファイルを出してきた。先ほど会議室でやったように、独特の手つきで3枚のポラロイド写真を1枚ずつ丁寧に並べた。奇妙な娘だな、と私は改めて思った。まるでこの話を始めるためにはまずこの儀式をしなければならない、なんて感じだ。3枚とも人形の写真なのだが、そのうちの2点は棺桶に入っている。
「3人とも人形師から買いました」
「なるほど。お店じゃなく、人形師から直接買ったわけだ」
「はい。私がお迎えしたいと選んだ子は、〈その子はまもなく死ぬよ〉と聞いたのです」
再び私は言葉を失った。
【 つづく 】