【 12月のニューヨーク 】
今回は「ライ麦」の話から始めたい。
「もし」という仮定は、事件が起こってしまった後ではなんの役にも立たない。それは重々承知しているのだが、もしチャップマンが「ライ麦」と出会うことがなければ、彼がこの小説に心酔することがなければ、レノン襲撃は起こらなかっただろうか。……いや、やはり起こったのではないかという気がしてならない。「ライ麦」との出会いがなくとも、拳銃を手に入れたチャップマンは、レノン襲撃という魔の道に邁進しただろう。
「ライ麦」には人を襲撃するようなシーンはない。しかし「偽善者は死ね! インチキ野郎は死ね!」といった主人公ホールデンの独白、「大人や、大都市や、社会に対する呪詛のような汚い言葉」は度々出てくる。チャップマンは自分の内部にチラチラとくすぶっている「際限ない暗い怒り」が一気に爆発するための火薬を探し求めていたのだろう。
アメリカで火薬と言えば、銃である。社会に対する怒りと拳銃が結びつけば、その銃口は人に向けられる。とはいえ、誰でもいいというわけではない。とりあえず(チャップマンが呪詛する社会で大成功を勝ち取った)インチキ野郎ということになるのだろう。確たる理由などなく、「有名人であればインチキ野郎に決まってる」といったホールデン的な解釈をチャップマンは利用したのだ。
犯行直後の供述で、チャップマンは以下のように述べている。
12月にニューヨークに行った。それは「ライ麦」とシンクロしていた。やるなら12月しかないと思った。「ライ麦」を読めばそれはわかるはず。
もちろん「ライ麦」を隅から隅まで読んでもそんなことがわかるはずはない。チャップマンだけがわかる襲撃理由が「ライ麦」にはあるのだ。
「ライ麦」の主人公ホールデンは高校から退学処分となり、学生寮に戻る。しかしそこでルームメイトの寮生と殴りあいの大喧嘩となる。夜になっていたが、彼はすぐに寮を出ることに決めて、ニューヨークに行く。季節は12月に入ったばかりで、街はクリスマスムード一色だ。彼は当てもなくきらびやかな大都会の夜をさまよう。
あなたにもきっと経験があるだろう。12月で、クリスマスシーズンで、大都会の夜。1年を通じて街が最もロナンティックに華やぐ時期だ。まさにその時期にひとりで夜の街をさまよう青年にとっては、ヒシヒシと孤独感が募る徘徊だろう。
「ライ麦」のホールデンとシンクロしたと思いこみ、飛行機に乗って、12月のニューヨークに行ったチャップマン。彼の大都会徘徊には「いまから自分がやろうとしていること」について疑問は浮かばなかったのだろうか。
チャップマンがレノンを襲撃したのは22時50分だった。その時彼はレノンのLP「ダブルファンタジー」と「ライ麦」を手にしていた。レノンに拳銃を発射した直後、彼はLPを投げ捨て、警官が到着するまでそのあたりを歩き回ったり、「ライ麦」を読んだりしていた。警官到着後も、逃走する気配は全くなかった。拳銃は路上に放り出し、石段に座りこんで「ライ麦」を読んでいた。
レノンのサークル型墓地。センターに「IMAGINE」の文字が刻まれている。
【 コーセルのコメント 】
レノンの死を最初に伝えた報道は、アメリカンフットボールの中継番組だった。コメンテーターのハワード・コーセルは次のように語った。日本じゃまずありえないというか、「いかにもアメリカン・コメンテーターの言葉」と思われるような内容だ。最後にコーセルのコメントを紹介してこの話を終わりにしたい。
どっちが勝とうが負けようが、これはただのフットボールの試合です。口にするのもはばかられるような悲劇がいま、ABCニュースから伝えられました。ビートルズのメンバーの中でも、おそらく最も有名なジョン・レノンが、マンハッタンの集合住宅の外で背後から2発の銃撃を受け、ルーズヴェルト病院に搬送されました。しかし到着と同時に死亡が確認されました。こんなニュース速報の後に試合に戻るなんてことは、とてもできません。たとえそれが我々の仕事だとしても。
【 完 】