【 初坐禅終了 】
先ほどの若い僧が部屋に入ってきた。「もう1時間たったの?」と私はちょっと意外に思ったが腕時計を持っていなかったので、正確なところはわからなかった。
僧は我々の前に音もなく座った。実際、このお寺で暮らしている僧たちはみな、立ち居ふるまいがじつに静かだった。着座してしばらくはなにも言わないところがまた印象的だった。
「かずくん」
「はいっ!」
「ではいつもの部屋で、着替えなさい。……2着、持ってきましたね?」
「はいっ!」
私にはなんのことやらわからなかったが、かずくんがここにくるたびに使っている部屋があるのだろう。その程度のことはわかった。
若い僧は微笑するとスッと立ち上がり、さっさと部屋を出て行った。誠に簡潔な行動だった。ポーカーフェイスというほどでもないが、我々に対して好意を持っているのか、その逆なのか、そうした感情がさっぱり読み取れないような人だった。
かずくんはため息をつき、足を崩し、ゆっくりと立ち上がった。しかし私はそうはいかなかった。
「いてて!……ててーっ!」
もうこんな痛みは二度とごめんだと叫びたいような痛みが、足全体に走った。
かずくんは同情してくれなかった。冷ややかな目で私の苦悩を見ていたが、ポツリと言った。
「まあ、そのうちに、なれるねん」
その部屋は「純和風の民宿の一間」みたいな四畳半だったが、まさにカラッポと言っていい部屋だった。テレビも、化粧台も、テーブルもなかった。照明は天井から下がっているものだけで、それがまた蛍光灯ではなく「裸電球に傘がついたもの」といった風情だった。押入れの上段に2人分の布団があり、下段に座布団があった。
かずくんは持ってきたリュックサックから灰色の衣類をひっぱり出した。その上下を畳の上に広げて私に見せた。2着あった。
「こっちな、ぼくはもう着れへんねん。太ったしな」
彼はその1着を私の方に押し出した。私は礼を言ってそれを受け取った。
「変わった服やな」
「作務衣いうてな」
「さむえ?」
「せや。……ここにいるあいだは、ずっとこの服でしんぼうや」
特にファッションに興味のある子ではなかったので服などどうでもよかったが、手首足首にゴムが入っているのは気に入った。肌触りもよかった。たぶん厚手の木綿100%だったのだろう。
「夜はここで寝るん?」
「せや」
「テレビも電気スタンドもないのん?」
彼は軽く笑った。
「テレビなんてもんは、ここには1台もないで。……電気スタンドもないねん」
「ふーん」
ちょっと驚きはしたが「なんとなく納得」とでも言おうか、私はすでにこの世界の禁欲ムードをそれなりに理解していた。
彼は腕時計を外し、リュックサックの中に入れた。
「腕時計はあかんの?」
「あかん」
靴下を脱いで、それもリュックサックの中に入れた。
「靴下もあかんの?」
「あかん」
私も靴下を脱ぎ、自分のリュックサックに入れた。
ここに持ちこんでいいものは、事前に聞いていた。篠田先生が、電話で父に伝えてきたのだ。本は1冊のみOK。ノートと筆記用具はOK。歯ブラシは1本のみOK。歯磨きは不可。下着は上下とも2着までOK。上記以外はすべて不可。
「決まりがあるねんで。ごめんな。ちょっと調べさせてもらうで」
かずくんは私が持ってきた物を全部出して並べるように言った。彼がまず最初に目を止めたのは730ページほどもある分厚いハードカバーの小説だった。
「海底二万海里?……なんやこれ?」
「いま、一番好きな本やねん」
「ふーん」
私はもっと説明したかったのだが、彼はまったく興味を示さなかった。
【 つづく 】