潮時 第二十話
大日向峰歩 作・小説『潮時』第二十話:『研究室の窓から』その2。本人がいないところでは悪口三昧、というのは、どの職場にでもある光景なのかもしれませんが、定例の会議前、田辺不在の教授室では、田辺以外の教員たちが決意をもって何かを画策しているようです。
大日向峰歩 作・小説『潮時』第二十話:『研究室の窓から』その2。本人がいないところでは悪口三昧、というのは、どの職場にでもある光景なのかもしれませんが、定例の会議前、田辺不在の教授室では、田辺以外の教員たちが決意をもって何かを画策しているようです。
大日向峰歩 作・小説『潮時』第十九話:『研究室の窓から』その1。天下り先の地方の私立女子大で働く68歳の田辺は、新学期を迎え、気重な毎日を過ごしている。気重さの原因は、仕事が忙しくなるからだけではないようで。四つめの〝潮時〟の始まりです。
大日向峰歩 作・エッセイ『心を紡いで言葉にすれば』第20回。フラダンスの踊りをはじめ、楽器を演奏するとか手紡ぎをするというような、技術や運動を習得することの難しさを『知覚運動協応』という現象から考え、繋がる喜びについて提案します。
大日向峰歩 作・小説『潮時』第十八話:『クプナの舞い』その7。そしてやって来た発表会。すったもんだありながらも、結局オリジナルメンバーは揃って舞台に上がります。高まる意欲。ままならぬ記憶。意欲と記憶の綱引きは、どこで決着がつくのでしょうか。三つめの潮時の話、ラストです。
大日向峰歩 作・小説『潮時』第十七話:『クプナの舞い』その6。数多ある趣味の中から「フラダンス」を選ぶということ。そこにはある共通点がある。果たしてそれは何か? 各地のフラダンス教室をはしごするフラジプシーの存在。良子の教室は、そんなジプシーたちの最後の砦のようです。
大日向峰歩 作・小説『潮時』第十六話:『クプナの舞い』その5。いつからだろう。教える者と教わる者の立ち位置が入れ替わったのは。「教えてもらう」という言葉に秘められた敬意や謙遜は今いずこ。だが、良子の通うフラダンス教室では、そんな時勢とは無縁のようです。そして、クプナという言葉に秘められた意味。一見華やかな世界に潜む闇。その真髄に迫ります。
大日向峰歩 作・小説『潮時』第十五話:『クプナの舞い』その4。人はいつでも居場所を求めます。家庭、職場、地域、そして趣味の場。自分の居場所がここにはないと思った時、人のこころは折れるのかもしれません。三つめの潮時。果たして良子は、その引き潮に乗って行くのでしょうか?
大日向峰歩 作・小説『潮時』第十四話:『クプナの舞い』その3。良子の通うフラダンス教室にどことなく流れる不協和音。その正体は、教室の成り立ちによるものなのでした。果たしてそれはどんなものなのでしょうか?それぞれの思惑が交差してすれ違う、その実態に迫ります。
大日向峰歩 作・小説『潮時』第十三話:『クプナの舞い』その2。良子のモヤモヤの正体は、日本各地のフラダンス教室で少なからず生じているであろう、あの問題でした。自分の欲を押し通すために、誰かに我慢を強いなければならない。民主主義では当たり前の〝最大多数の最大幸福〟は本当に人を幸せにするのでしょうか。
大日向峰歩 作・小説『潮時』第十二話:『クプナの舞い』その1。古希を過ぎた良子は、ある出来事のせいでモヤモヤしている。そのモヤモヤが、思わぬ悲劇を良子にもたらす。怒りにも似たそのモヤモヤは何故生じたのか。三つめの〝潮時〟の始まりです。