潮時 第二十四話
大日向峰歩 作・小説『潮時』第二十四話:『研究室の窓から』その6。田辺という一人の男にも、夫や父という役割があるように、家族の姿というものはその視点の数だけ、見え方も違うのかもしれません。その景色の中を、鳥のような身軽さで行き来するあずさ。子どもの持つ自由さが、この家族に何かをもたらすのでしょうか。
大日向峰歩 作・小説『潮時』第二十四話:『研究室の窓から』その6。田辺という一人の男にも、夫や父という役割があるように、家族の姿というものはその視点の数だけ、見え方も違うのかもしれません。その景色の中を、鳥のような身軽さで行き来するあずさ。子どもの持つ自由さが、この家族に何かをもたらすのでしょうか。
大日向峰歩 作・小説『潮時』第二十三話:『研究室の窓から』その5。大人になれば、自分の尻は自分で拭わなければなりません。駄々をこねた挙句、大学を辞めることになった田辺。そのことを家庭内で報告する時、止まっていたと思っていた歯車が動き出します。
大日向峰歩 作・小説『潮時』第二十二話:『研究室の窓から』その4。思わぬ同僚の災難により、働く意欲ゼロの田辺に、突然降って湧いた小さな責任。大学という職場で自由気ままに生きるためには、それなりの責任を負うことが必要なのですが、田辺にはそれを担うことができるのでしょうか。
大日向峰歩 作・小説『潮時』第二十一話:『研究室の窓から』その3。田辺不在のまま進む会議という名の雑談。必要なことを言わせない空気をまとう会議ほど無駄なものはないのですが……。どうやら問題は、田辺自身にだけあるわけでもなさそうです。
大日向峰歩 作・小説『潮時』第二十話:『研究室の窓から』その2。本人がいないところでは悪口三昧、というのは、どの職場にでもある光景なのかもしれませんが、定例の会議前、田辺不在の教授室では、田辺以外の教員たちが決意をもって何かを画策しているようです。
大日向峰歩 作・小説『潮時』第十九話:『研究室の窓から』その1。天下り先の地方の私立女子大で働く68歳の田辺は、新学期を迎え、気重な毎日を過ごしている。気重さの原因は、仕事が忙しくなるからだけではないようで。四つめの〝潮時〟の始まりです。
大日向峰歩 作・エッセイ『心を紡いで言葉にすれば』第20回。フラダンスの踊りをはじめ、楽器を演奏するとか手紡ぎをするというような、技術や運動を習得することの難しさを『知覚運動協応』という現象から考え、繋がる喜びについて提案します。
大日向峰歩 作・小説『潮時』第十八話:『クプナの舞い』その7。そしてやって来た発表会。すったもんだありながらも、結局オリジナルメンバーは揃って舞台に上がります。高まる意欲。ままならぬ記憶。意欲と記憶の綱引きは、どこで決着がつくのでしょうか。三つめの潮時の話、ラストです。
大日向峰歩 作・小説『潮時』第十七話:『クプナの舞い』その6。数多ある趣味の中から「フラダンス」を選ぶということ。そこにはある共通点がある。果たしてそれは何か? 各地のフラダンス教室をはしごするフラジプシーの存在。良子の教室は、そんなジプシーたちの最後の砦のようです。
大日向峰歩 作・小説『潮時』第十六話:『クプナの舞い』その5。いつからだろう。教える者と教わる者の立ち位置が入れ替わったのは。「教えてもらう」という言葉に秘められた敬意や謙遜は今いずこ。だが、良子の通うフラダンス教室では、そんな時勢とは無縁のようです。そして、クプナという言葉に秘められた意味。一見華やかな世界に潜む闇。その真髄に迫ります。