
潮時 第十六話
大日向峰歩 作・小説『潮時』第十六話:『クプナの舞い』その5。いつからだろう。教える者と教わる者の立ち位置が入れ替わったのは。「教えてもらう」という言葉に秘められた敬意や謙遜は今いずこ。だが、良子の通うフラダンス教室では、そんな時勢とは無縁のようです。そして、クプナという言葉に秘められた意味。一見華やかな世界に潜む闇。その真髄に迫ります。
大日向峰歩 作・小説『潮時』第十六話:『クプナの舞い』その5。いつからだろう。教える者と教わる者の立ち位置が入れ替わったのは。「教えてもらう」という言葉に秘められた敬意や謙遜は今いずこ。だが、良子の通うフラダンス教室では、そんな時勢とは無縁のようです。そして、クプナという言葉に秘められた意味。一見華やかな世界に潜む闇。その真髄に迫ります。
大日向峰歩 作・小説『潮時』第十五話:『クプナの舞い』その4。人はいつでも居場所を求めます。家庭、職場、地域、そして趣味の場。自分の居場所がここにはないと思った時、人のこころは折れるのかもしれません。三つめの潮時。果たして良子は、その引き潮に乗って行くのでしょうか?
大日向峰歩 作・小説『潮時』第十四話:『クプナの舞い』その3。良子の通うフラダンス教室にどことなく流れる不協和音。その正体は、教室の成り立ちによるものなのでした。果たしてそれはどんなものなのでしょうか?それぞれの思惑が交差してすれ違う、その実態に迫ります。
大日向峰歩 作・小説『潮時』第十三話:『クプナの舞い』その2。良子のモヤモヤの正体は、日本各地のフラダンス教室で少なからず生じているであろう、あの問題でした。自分の欲を押し通すために、誰かに我慢を強いなければならない。民主主義では当たり前の〝最大多数の最大幸福〟は本当に人を幸せにするのでしょうか。
大日向峰歩 作・小説『潮時』第十二話:『クプナの舞い』その1。古希を過ぎた良子は、ある出来事のせいでモヤモヤしている。そのモヤモヤが、思わぬ悲劇を良子にもたらす。怒りにも似たそのモヤモヤは何故生じたのか。三つめの〝潮時〟の始まりです。
大日向峰歩 作・エッセイ『心を紡いで言葉にすれば』第19回。手紡ぎという、とある趣味の沼の解説から始まり、人が青春を永遠にしようとする心を、発達心理学の「自我(アイデンティティ)理論」の中に読み取ります。
大日向峰歩 作・小説『潮時』第十一話:『もうちょっとだけ』その3。限界の際を極めるとは、さながら崖の上に立ち、眼下に広がる景色を見つめること。そこで少女が手にするものは、引くタイミングなのかもしれません。二つ目の〝潮時〟『もうちょっとだけ』のラストです。
大日向峰歩 作・小説『潮時』第十話:『もうちょっとだけ』その2。思春期の少女にとって、親でも先生でもない〝大人〟は時に憧れに、時にブレイクスルーをもたらす異邦人になるものです。その大人の思わぬ解決策とは?やめられない止まらないかっぱえびせんはやめられるのでしょうか。
大日向峰歩 作・小説『潮時』第九話:『もうちょっとだけ』その1。ある少女の目下の悩みは「もうちょっとだけ」と思う気持ちを止められないこと。やめられない止まらない心理は、大人の暮らしの中にも溢れているけれど、少女のそれは、どのようなものなのでしょうか。
大日向峰歩 作・エッセイ『心を紡いで言葉にすれば』第18回。「人が山に登るのは、そこに山があるからだ」という、あまりにも有名なこの一文について、社会心理学における帰属理論の中の『共変モデル』から考えてみます。