別訳【夢中問答集】第七十六問 禅宗とそれ以外の宗派の主張の違いは何? 1/4話

足利直義:「究極の悟りの世界」について、華厳経が主張する「『仏』もいなければ『衆生』もいない」という説は、禅宗が主張する「衆生と仏が分離する前の状態」という説とどう違うのでしょうか?

夢窓国師:華厳経の「『仏』もいなければ『衆生』もいない」という主張は、「仏と衆生が別れている」ことを前提とした上で、「究極の悟りの世界にあっては、『仏』と『衆生』の間に能力の差はない」ということを言おうとしているのであって、禅宗における「衆生と仏が分離する前」という主張とは異なる。

言い方が似ているからといって両者を同じものだと考えてもらっては困るな。

これは例えば人の顔を説明するのに「額に眉毛があって、その下に目があって、目の下には鼻があって、鼻の下には口がある」と表現したならば、男も女も金持ちも貧乏者もみな同じ顔だということになってしまうが、実際には人によって顔つきはまるで異なっているというようなものじゃ。

テキスト重視派は文字・言語による表現を重んじているので、何かを説明する時には必ず大小や権実(ごんじつ。表面的なものと真実の姿)を分けて語る。

禅宗は「教外別伝不立文字」を看板にしていると知りながら、言葉尻を捕らえてあれこれと区別しようとするのは間違いじゃ。

今どきの禅の修行者の中に「禅師の示す言葉はテキスト重視派の主張とは違う。これこそ禅が優れている証拠だ!」などと言うヤツがおるが、それなら「テキスト重視派の主張は禅師の言葉とは違う。これこそがテキスト重視派が優れている証拠だ!」という説も成立してしまう。

教外別伝の宗旨は、そういった文字・言語上の異同をあれこれといじりまわさないというところにあるのじゃ。

かといって「文字・言語では表現できないところこそが禅の境地なのだ!」としてしまうのも極論であって間違いじゃ。

なぜならばテキスト重視派の中にも文字・言語で表現しない派閥があるからじゃ。これも禅宗かと言われれば全然違うしな。

また、昔からよくある批判に「禅宗は不立文字というわりにはメッチャ語りますよね?」というものがあるが、これは禅というものを誤解している。

禅師がもの凄く多弁なのは「言葉で説明しようとしている」のではなく、「真実は文字・言葉では説明しきれない」ということを力説しようとしているからなのじゃ。

文字・言葉では説明しきれないからといって「説明できないものごとこそ究極!」と主張したいわけではなく、「ただもう黙ってボーっとしておけ!」というわけでもない。


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