別訳【夢中問答集】第四十二問 世間と向き合うのか? 究極の真実と向き合うのか?

足利直義:と、いうことであればですよ。まずは環境に振り回される気持ちを落ち着かせることに専念して、それがなんとかなってから「究極の真実」と向き合うというのではダメですかね?

夢窓国師:そういう先延ばし根性がよくないと言っておるのじゃ!

せっかく人としてこの世に生まれて、さらには奇跡的に仏の教えに触れることができたというのに、今の人生で取り組もうとしないでいったいいつの人生で取り組むつもりなのじゃ!?

人の命というものは実に儚いものじゃ。今吐いた息をもう一度吸える保障などどこにもない。
「世間のあれこれになど、一瞬たりとも心を動かされてたまるものか!」と常日頃から努力している人は、環境に振り回されることはない。

もし振り回されそうになったとしても、いったいなぜそのような気持になるのかということについて猛烈に考え抜くことになるから、イラっとしたりムカついたりという気持ちすらも自らの修行の助けとしてしまうことじゃろう。

・・・まぁしかし、そこまで根性の据わったヤツはなかなかおらんものじゃ。

世の大半の人は環境に振り回されてしまいがちだということで、仕方なく、まずは世間と折り合いをつけることをオススメしているのであって、それができるようになるまでは「究極の真実」と向き合ってはいけないと言っているわけではない。

先に挙げた羅漢と呼ばれる境地に達した人たちは、もはや世間的な事柄に心を動かされることはないのじゃが、それが仏の道なのかといえばそうではない。

むしろ、生まれつきの才能も乏しく、劣悪な環境の中にあって、世間的な事柄に心を動かされまくる状態でありながら「究極の真実」を求める心を忘れない人の方が、仏の道を歩いているといえる。

「究極の真実」を求めるのは世間と折り合いをつけてからにしろ、というのは間違いなのじゃ。

修行熱心な人は寝食も忘れるというが、そんな生活を続けることは生物として不可能なので、そのうち必ず身体の調子が悪くなってくる。

そんな時は「よく注意して休み、よく注意して食事をする」ことで修業を継続するのじゃ。

「修行を続けるためにはちゃんと睡眠も食事もとった方がいい」というのは、「寝たり食べたりしている間は修行のことは忘れてよい」ということではない。

昔の人は言ったよ。「歩くときはよく注意して歩け。座るときはよく注意して座れ。寝るときはよく注意して寝ろ。見聞きするときはよく注意して見聞きしろ。触れるときはよく注意して触れろ。嬉しい時はよく注意して喜べ。ムカついたときはよく注意して怒れ」、とな。

これこそ先輩たちが伝えてきた修行の奥義なのじゃ。

これさえ実践すれば、まず悟れないということはない。


☆     ☆     ☆     ☆

★別訳【夢中問答集】(上)新発売!
これまでに連載した第1問から第23問までを収録。(全三巻を予定)
エピソードごとにフルカラーの挿絵(AIイラスト)が入っています。

別訳【碧巌録】シリーズ完結!
「宗門第一の書」と称される禅宗の語録・公案集である「碧巌録」の世界を直接体験できるよう平易な現代語を使い大胆に構成を組み替えた初心者必読の超訳版がついに完結!
全100話。公案集はナゾナゾ集ですので、どこから読んでもOKです!

★ペーパーバック版『別訳【碧巌録】(全3巻)』

 

スポンサーリンク

フォローする