別訳【夢中問答集】第四十九問 修行は身体・口・頭を使ってやるものではない?

足利直義:いやいや和尚さま、「禅宗の修行は身体や口でやるものではない」というのはわからないではないですが、「頭も使わない」ということになってしまうのであれば、いったい何をどうやって修行することになるのでしょうか?

夢窓国師:「修行は身体や口や頭でやるものではない」とは言ったが、某宗派のように「身体も意識も全て捨ててしまって死んだような境地を目指せ!」と言っているわけではない。

前にも言ったが、一般人が無批判に存在すると考えている「身体」や「意識」などというものは、空中にチラつく幻影と同じで実体がないのじゃ。

ここのところをカンチガイしたままで「オレはこの身体を使って儀式などを行うことで修業している」、あるいは「オレは口でお経を読みあげ、頭で色々と理屈を考えることで修業している」と心得てしまうことを批判しているのじゃ。

般若心経に「眼耳鼻舌身意すらもない」とあるのは、まさにこのことを言っておる。

大集経(だいじっきょう)には「悟りは身体で得るものではない。心で得るものでもない。なぜならば身体や心はみなマボロシだからだ」と書かれておる。

般若三昧経には「仏は心で認識するものでもないし、知覚で認識するものでもない」、また「肉体でも智慧でも得られない」とある。

世間の人々は色や形は眼で見るものだと、音は耳で聴くものだと、様々な教えは意識で知るものだと考えておる。

そんなことだから目が見えなくなったら見ることはできず、耳が聞こえなくなったら聴くことができず、認知症になったら教えを守ることができないということになってしまうのじゃ。

楞厳経(りょうごんきょう)には「仏弟子アニルッダ(阿那律)は失明したが世界の全てを手のひらに乗せたように見ることができた。八大龍王ウパナンダ(跋難陀龍)は耳がなかったが教えを聞くことができた。ガンジス川の主神ガンガー(恒河神)は鼻がなかったが香を知ることができた。仏弟子ガヴァーンパティ(憍梵波提)は舌を使わずに味を知ることができた。虚空神は身体を持たないが触れることができた。仏弟子マハーカッサパ(摩訶迦葉)は眼耳鼻舌身はおろか意識まで滅していたが円満な智慧を持っていた」と書かれておる。

こういった理屈を知らないから、「修行は身体や口でやるものではない」と聞いてビックリしてしまうのじゃ。


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