【善財くんがゆく!】第九話 善財くん、空を歩く僧に出会う:第三の善知識・善住比丘 (3)

黒雲は、
空の端をゆっくりと流れていた。

最初は、
ただの雨雲に見えた。

だが。

善財は眉をひそめる。

(……違う)

妙だった。

雲の動きが。

周囲の風とは、
噛み合っていない。

まるで、
別の意思で動いているようだった。

善住比丘もまた、
静かにその雲を見つめていた。

先ほどまでの穏やかな表情が、
少しだけ消えている。

善財は思わず訊いた。

「何ですか、
あれ」

善住比丘はすぐには答えなかった。

風が吹く。

天の伎楽が、
ほんのわずかに乱れた。

笛の音が低くなる。

鈴の響きが濁る。

空全体の調和が、
少しだけ軋んだ。

善財の背筋に、
冷たいものが走る。

善住比丘は、
小さく息を吐いた。

「……来たか」

その瞬間。

黒雲の中で、
何かが動いた。

巨大だった。

雲よりもさらに黒い影。

細長く、
うねるように空を泳いでいる。

善財は目を見開く。

「あれ……」

影が、
ゆっくりとこちらを向いた。

金色の眼。

空の遥か彼方で、
それが光った。

善財は凍りつく。

次の瞬間。

轟音。

黒雲が裂けた。

巨大な龍が、
空の中から姿を現した。

「うわっ!?」

善財は思わず後退る。

だが空の上だ。

足場が揺らぐ。

身体が傾く。

「おっと」

善住比丘が軽く指を動かす。

その瞬間、
善財の身体が再び安定した。

だが龍は止まらない。

巨大な身体をうねらせながら、
一直線にこちらへ向かってくる。

風が荒れる。

空気が震える。

雲が千切れ飛ぶ。

善財は叫んだ。

「何なんですかアレ!?」

善住比丘は、
どこか困ったような顔をした。

「空の流れが乱れると、
たまに来るのじゃ」

「たまに来るって規模ですか!?」

龍が吼える。

空そのものが震えた。

善財は耳を塞ぐ。

しかし。

善住比丘は動かなかった。

逃げもしない。

ただ静かに、
龍を見つめている。

風が吹く。

衣が揺れる。

天の音楽が、
再び鳴り始めた。

今度は先ほどより、
はるかに強く。

笛。

弦。

鈴。

無数の音が、
空全体へ広がっていく。

すると。

荒れていた風の流れが、
少しずつ変わり始めた。

龍の動きが鈍る。

巨大な身体が、
空中でわずかに揺らいだ。

善財は息を呑む。

(空そのものを……
整えてる……?)

善住比丘は静かに言った。

「世界は、
本来ひとつの楽なのじゃ」

龍が唸る。

だが。

空の音楽は止まらない。

乱れていた風。

裂けていた雲。

暴れていた気流。

それらが少しずつ、
ひとつの流れへ戻っていく。

善財は、
目の前の光景に圧倒されていた。

戦っているようには見えなかった。

むしろ――

巨大な空そのものを、
調律しているようだった。

龍はなおも唸り続けていた。

巨大な身体をくねらせ、
黒雲を巻き込みながら、
空を荒らしている。

だが先ほどまでの勢いは、
少しずつ失われ始めていた。

善住比丘は、
静かに右手を上げる。

すると。

空の音楽が変わった。

今まで調和していた旋律が、
さらに複雑に重なり合っていく。

笛の音。

鈴の音。

見えない無数の楽器。

それらが、
龍の動きに合わせるように響き始めた。

善財は目を見開く。

(合わせてる……?)

戦っているのではない。

押さえつけてもいない。

善住比丘は、
龍の“流れ”そのものへ、
音を重ねているのだ。

暴風が吹く。

龍が吼える。

しかしその荒々しささえ、
次第に巨大な旋律の一部へ変わっていく。

善財は呆然と呟いた。

「そんなこと……
できるのか……」

善住比丘は笑った。

「世界から、
無理に何かを消そうとするから苦しくなるのじゃ」

龍が再び唸る。

黒雲が膨れ上がる。

だが今度は、
先ほどほど恐ろしく見えなかった。

荒れ狂う風もまた、
空の流れの一部に見え始めていた。


☆     ☆     ☆     ☆

★この物語を気に入っていただけた方へ。
好雪文庫の刊行物をWebショップでご覧いただけます。

好雪文庫の刊行物を見る―好雪文庫Webショップ

スポンサーリンク

フォローする