黒雲は、
空の端をゆっくりと流れていた。
最初は、
ただの雨雲に見えた。
だが。
善財は眉をひそめる。
(……違う)
妙だった。
雲の動きが。
周囲の風とは、
噛み合っていない。
まるで、
別の意思で動いているようだった。
善住比丘もまた、
静かにその雲を見つめていた。
先ほどまでの穏やかな表情が、
少しだけ消えている。
善財は思わず訊いた。
「何ですか、
あれ」
善住比丘はすぐには答えなかった。
風が吹く。
天の伎楽が、
ほんのわずかに乱れた。
笛の音が低くなる。
鈴の響きが濁る。
空全体の調和が、
少しだけ軋んだ。
善財の背筋に、
冷たいものが走る。
善住比丘は、
小さく息を吐いた。
「……来たか」
その瞬間。
黒雲の中で、
何かが動いた。
巨大だった。
雲よりもさらに黒い影。
細長く、
うねるように空を泳いでいる。
善財は目を見開く。
「あれ……」
影が、
ゆっくりとこちらを向いた。
金色の眼。
空の遥か彼方で、
それが光った。
善財は凍りつく。
次の瞬間。
轟音。
黒雲が裂けた。
巨大な龍が、
空の中から姿を現した。

「うわっ!?」
善財は思わず後退る。
だが空の上だ。
足場が揺らぐ。
身体が傾く。
「おっと」
善住比丘が軽く指を動かす。
その瞬間、
善財の身体が再び安定した。
だが龍は止まらない。
巨大な身体をうねらせながら、
一直線にこちらへ向かってくる。
風が荒れる。
空気が震える。
雲が千切れ飛ぶ。
善財は叫んだ。
「何なんですかアレ!?」
善住比丘は、
どこか困ったような顔をした。
「空の流れが乱れると、
たまに来るのじゃ」
「たまに来るって規模ですか!?」
龍が吼える。
空そのものが震えた。
善財は耳を塞ぐ。
しかし。
善住比丘は動かなかった。
逃げもしない。
ただ静かに、
龍を見つめている。
風が吹く。
衣が揺れる。
天の音楽が、
再び鳴り始めた。
今度は先ほどより、
はるかに強く。
笛。
弦。
鈴。
無数の音が、
空全体へ広がっていく。
すると。
荒れていた風の流れが、
少しずつ変わり始めた。
龍の動きが鈍る。
巨大な身体が、
空中でわずかに揺らいだ。
善財は息を呑む。
(空そのものを……
整えてる……?)
善住比丘は静かに言った。
「世界は、
本来ひとつの楽なのじゃ」
龍が唸る。
だが。
空の音楽は止まらない。
乱れていた風。
裂けていた雲。
暴れていた気流。
それらが少しずつ、
ひとつの流れへ戻っていく。
善財は、
目の前の光景に圧倒されていた。
戦っているようには見えなかった。
むしろ――
巨大な空そのものを、
調律しているようだった。
龍はなおも唸り続けていた。
巨大な身体をくねらせ、
黒雲を巻き込みながら、
空を荒らしている。
だが先ほどまでの勢いは、
少しずつ失われ始めていた。
善住比丘は、
静かに右手を上げる。
すると。
空の音楽が変わった。
今まで調和していた旋律が、
さらに複雑に重なり合っていく。
笛の音。
鈴の音。
見えない無数の楽器。
それらが、
龍の動きに合わせるように響き始めた。
善財は目を見開く。
(合わせてる……?)
戦っているのではない。
押さえつけてもいない。
善住比丘は、
龍の“流れ”そのものへ、
音を重ねているのだ。
暴風が吹く。
龍が吼える。
しかしその荒々しささえ、
次第に巨大な旋律の一部へ変わっていく。
善財は呆然と呟いた。
「そんなこと……
できるのか……」
善住比丘は笑った。
「世界から、
無理に何かを消そうとするから苦しくなるのじゃ」
龍が再び唸る。
黒雲が膨れ上がる。
だが今度は、
先ほどほど恐ろしく見えなかった。
荒れ狂う風もまた、
空の流れの一部に見え始めていた。

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