維摩のオッサンと「絶対の境地」 4/5話(出典:碧巌録第八十四則「維摩不二法門」)

本当に悟った人というものは、もはや自分が「悟った」とか「悟っていない」とかを話題にすることはないものです。

だから「仏が、さらに仏になるための修業をする」ことの是非など、全くどうでもよい話です。

円覚経に書いてあるではありませんか。
「「輪廻から離脱したい」という気持ちを捨てない限り、本当に輪廻を離脱することはできないのだ」、と。

以前「杖を握ってぐるぐる廻る」の回で引用した永嘉玄覚(ようかげんかく)は、慧能和尚(中国における仏教六代目伝承者)と一晩問答しただけで究極の悟りを得てしまったというエピソードの持ち主ですが、彼がその悟りの境地をポエムで表現した「証道歌」の中に、次のようなくだりがあります。

オレ様が「表」でいくか「裏」で行くか、見抜けるヤツは誰もいない。
オレ様が「進む」のか「退がる」のか、天であったところで予測することは不可能なのだ。

この場合、「進む」というのは仏の世界に入っていくことを、「退がる」とは一般大衆の中に入っていくことを指すのですが、寿和尚はこの部分に対して「たとえオマエが厳しい修行の末にこの境地を得たとしても、それだけでは全くなんの役にも立ちゃしないのだ。「表」とか「裏」とかを意識しなくなって初めて、「進んだり退がったり」できるようになるのだから。」とコメントされていましたっけ。

―――――つづく

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