(旧)Twitterでお話しました
みなさまこんにちは。
「妄想生き物紀行」編集担当、ホテル暴風雨オーナー雨こと斎藤雨梟です。
今回も、ポッドキャスター・ぐっちーさんのエッセイ「イリオモテヤマネコ〜ぐっちー、ブリコラージュ派だと思う」を読んで、ぐっちーさんにあれこれお聞きしたもようを、お伝えいたします。
先週のぐっちーさんのエッセイをお読みいただくとより楽しめる内容です。
時間、空間、捨てない派
シャルル大熊さんからコメントいただきました。
捨てる人と捨てない人いますね。これは「時空間VS物質」の問題だと思います。時間や空間に価値を置く人はいま不要な物は捨てます。時間や空間にあまり価値を置かない人は「いつか」使える物に空間を占めさせておきます。
— シャルル大熊@文学フリマ東京11/11 (@charles_okuma) October 27, 2023
捨てる派の言い分のひとつ、「時間」「空間」の価値の方が物より高いというやつですね。物を置くスペースよりお金の価値が高いという意見もよく聞きます。つまり、物置き場になっている場所の分まで家賃を払うなんてバカバカしい、その場所の分小さな家に住んで家賃を浮かせば新しいものが買えるとか、家賃を払った分の空間を物ではなく自分が使ってこそお金が生きるとか、そういうことです。
私はこう考えてみました
空間キャパシティが余っている時は溜め込み型で問題ないのでしょうが、少ない場合は取捨選択を迫られます
他人から見てキャパシティが余っているように見えても、本人はまだ置いていない物質を含めて少ないと判断した場合は捨ててしまうのかもしれません— ぐっちー (@mousou_guccy) October 27, 2023
「空間が余っている」=「がらんとしていて寂しい」
「時間が余っている」=「暇ですることがない」
と言い換えると、空間を埋め尽くすためや何かしらの暇つぶしのために物が必要なようにも見えますが、物を捨てない人が必ずしも「空間と時間が余って余ってしかたがない」と考えているわけではなく、一期一会、手放したら二度と出会えないかもしれない物との縁に大きな価値を置いているとも言えます。それが、たとえ自分の身の置き所がなくなっても物を置く人の言い分ならば、他人はともかく本人から見ると、空間的キャパシティは「まだギリギリいける」なのでしょう。
時間と空間は足りなくなってくると急激に価値が上がる財なのですよね。
— シャルル大熊@文学フリマ東京11/11 (@charles_okuma) October 27, 2023
思ったんですが、空間は不足気味だし物は整理して捨てたい、でも時間が足りないからそれができない、という人もいます。いやいやいや、暇なときに片付けないからこうなったんだろうが、と言われがちなパターンです。身に覚えありすぎる。結局、物を捨てるか捨てないかは、意志とか、実質的な時空間の不足がどうこうというより、随所随所で「めんどくさい」と思うかどうか、つまり「片付けたり物を捨てることと他のこととどっちに時間を使うか」とか、そういうことなのでは……だんだん物を捨てるから整理整頓の話になってるでしょうか?
時間の価値はライフステージで大きく変わります
学生時代のモットーは、金は借りられるが時間は借りられないでした
この点については変わってないですが— ぐっちー (@mousou_guccy) October 28, 2023
つまり学生時代のぐっちーさんは借金火だるまだったということかあ(多分違う)
「時間」という資源を使ってお金・経験・技能に変え、さらにそれらを使って「物」や「空間」をどう増やすのか減らすのか?
このプロセスにも設計とブリコラージュが関わってきそうですね。— 斎藤雨梟 (@ukyo_an) October 29, 2023
意思的な「設計」「ブリコラージュ」はもちろんですが、一瞬一瞬を意思決定に基づいて過ごすか、流されて何となく過ごすかという要素も無視できないですね。
そう考えると、「設計」派には完璧主義的なイメージがある一方、「常に今できることに最善をつくす」タイプの完璧主義者の場合、待ち時間なんてものはなく「今あるもの」を「最も有効に使う」のみですから、「ブリコラージュ」派にならざるを得ません。
がむしゃらに働いていたらいつの間にか金持ちになっていた
そうなってみたいです— ぐっちー (@mousou_guccy) October 29, 2023
ブリコラージュ派の勝利者はこういうタイプ。いいですねえ〜。
だんだんどんな傾向・性格の人が「設計」派であり「ブリコラージュ」派なのか、混乱してきました。
シャルル大熊さん、どうもありがとうございます!
テトリスの長いの待ちは設計派? ブリコラージュ派?
続いて、ホテル暴風雨風オーナーのコメントです。
ブリコラージュ、はじめて聞きました。でもみんなやっていることですね。設計はいろいろ条件がそろわないと成立しない気がします。人生のほとんどはブリコラージュで、ときどき設計。
— 風木一人@文学フリマ東京11/11【う-40】 (@Kazeki_Kazuhito) October 28, 2023
確かに、決まった材料を定量揃えてさて開始! なんて、たいていは無理です。人生は一度きりの試行ですからね。でも部分的には同じことに何度もチャレンジして洗練させ、計画的に次の試行をしたり、先人の知恵を借りてやり方を真似できる過程もあり、それが「設計」の出番ということですね。
人間国宝と呼ばれるような熟練の職人も、本人はブリコラージュを積み重ねているだけと思っているかもしれません
他者の視点では伝統を継承しているとみなされても
すべからくブリコラージュであり、生き残った者が設計に見えるというカラクリかもしれません— ぐっちー (@mousou_guccy) October 28, 2023
伝統には個別の「色」がついていますが、それが大きな容器にたまった色つきの水だとすると、最初のひとしずくを入れた人にはほぼ無色透明に見えたはず。途中で誰かが色を変えたからこそ、全体の色合いが今のようになったのかもしれない。そんな想像もできます。
風オーナー、ありがとうございます!
進化系統樹が整った道筋に見えるのと同じ仕組みですね。
確かに人生に完璧な設計はなく、有限時間内に有り物で何とかするのみですが、すぐ揃う手で上がるか良い手ができるまで待つかみたいなところには個性が出そうですね
テトリスの長い棒待つかどうか問題😆— 斎藤雨梟 (@ukyo_an) October 29, 2023
「テトリスの長い棒」で話は通じるでしょうか。
落ちもの系ゲームの代表格・「テトリス」で、深い隙間ができてしまった時にやたらと頼りにされる細長いブロックのこと。つまり、
↑これ↑ のことが言いたいのです。
さて、本題に戻りますと、実はどんどんわからなくなってきました。
右端に上図のような隙間ができた時、隙間を埋めるのにピッタリな「長い棒」が来るのをギリギリまで待つのは「設計」的か「ブリコラージュ」的か、ということがです。
「あくまでも隙間を埋める形状に最も適したものをあてはめたい」から待つと考えると「設計」です。
でも、こうも考えられないでしょうか?
手近なもので少しずつ埋めて消してしまうことも可能な細長い隙間を「いつか埋まるかもしれないからとりあえず取っておく」ことにして、「今落ちてきた(L型や凸型などの)ブロックで埋められそうな他の隙間を先に埋めると考えると、「何かに使えるかもしれないものをとりあえず捨てずに取っておく」と同様の「ブリコラージュ」である。
えーと、どっちなんだろう? 本当にわからなくなってきた。テトリスの例えが全然ダメだった、という落ちになりそうです。思いついた例えをとりあえず言ってみたブリコラージュの敗北、滅んでしまった系統樹のひと枝です。あーあ。
さきほど、常に今できるベストを尽くせばブリコラージュ派になると書きましたが、それとは逆に計画通りに実行できないならただ待っているのが設計派かと言われると、何だか違和感がある。設計図という概念ができたのはブリコラージュの結果でしょうから、実はこの二つ、設計<ブリコラージュという包含関係にあり、意外と区別がつきにくいんじゃないでしょうか? テトリスで説明がつかないのもやむなしです。
それはそうと、今回まったく話題に出なかった本来のお題「イリオモテヤマネコ」の看板を自分の絵や他の写真とコラージュしてみました。
題して「コラージュでブリコラージュ」
というわけで今回はこれにて。次回のエッセイのテーマは「ウミウシ」。妄想旅ラジオ第88回「ウミウシ」に関連した内容です。ウミウシってカラフルで可愛いイメージのある生き物ですが、ラジオの配信では、「カラフル」では追いつかない、魅惑のウミウシコレクションをぐっちーさんが紹介してくれますよ。ポチ子さんとたまさんのお話も、ウミウシからそこに? と、予想もつかない着地点で楽しめること間違いなし。妄想旅リスナーの方も、復習&エッセイ予習にもう一度ぜひ、聴いてみてください。次回のエッセイもどんなお話になるか、どうぞお楽しみに!