虫が来ている
虫っぽい。
ロング丈のダウンコート(上図参照)が流行り始めた時、そう感じた。
わざとイモムシっぽくしたとしか思えない。
虫、来るのか。
虫勢力はすぐに広がり、私は恐々とした。特に虫は嫌いでないが、混雑した場所で待ち合わせなどして、人より虫が多い気がしてくるのは不穏だ。
ハチ公前で虫コートに囲まれながら「前門の芋虫……まあ想定内だ」「後門の青虫……緑色となると妙にリアル」などと過敏に反応し、いよいよ現れた友人のコートを見て「**(友人の名前)よ、お前もか! しかも黒と赤、ツマグロヒョウモンの幼虫か!?」と慄いていたものである。
その後イモムシが大ブレイクということもなく、しばらくすると見慣れて虫コートに何も思わなくなった。
しかし今、やはり「虫が来ている」と思うのだ。
虫コートのブームは去ったが定番化し、加えて複眼みたいな耳あてやヘッドフォンをする人もいるし、どの虫と特定し難いがとにかく虫っぽいスニーカーをよく見かける。(ページトップの絵参照)
先日道を歩いていた時など、後ろから追い越して行った自転車の人が、アゲハチョウの幼虫を10倍に拡大したような青虫を背負っていた。
「なぬ?」と早足で追跡して一瞬近くで見た。黒地に緑色の青虫模様のリュックを黒服の人がしょっていたとわかった。青虫の形はシンプルに図案化されているが、節を表す黒い曲線のうちの一本だけがなぜか超リアリズム……と思いきや、その曲線は某有名スポーツブランドのロゴだった。「ナイキが変なリュックを!何それみみしろい」と色めき立ったのは言うまでもない。(ページトップの絵参照)
だが帰宅後、「青虫そっくり」「リュック」「ナイキ」などで検索するも、それらしいものはヒットせず、夢か幻覚だったかとモヤモヤしている。青虫リュックの正体をご存知の方は是非お知らせください。
昔から一定数の「虫好き」はいるが、近頃世間は「虫好きのマニアックさや虫愛を鑑賞する」相に入っているという。平安時代の古典「虫愛づる姫君」への回帰を思わせるが、虫好きで知られる俳優の香川照之さんが虫のコスプレをして虫を追いかけたり虫についてレクチャーするテレビ番組が大人気と複数の人から聞いた。なにせテレビを見ないので人づての話ばかりで実態はわからないが、虫好きの虫愛のすごさがリスペクトされているのは間違いなさそうだ。
だがそれとこの虫っぽい扮装の流行とは別物な気がする。ブームとは異次元の意味で「虫が来ている」可能性を、私は見ている。
虫への擬態
それは、人類が虫に擬態しているのでは、ということだ。
擬態とは虫が木の枝そっくりだったり、無毒の生物が毒を持つ強い生物と似た姿をしていたりすることだ。似ているだけでなく「何かに似た姿が生存に有利だからそうなったのでは?」と推測されてはじめて擬態と呼ばれるようだ。
重要キーワードの一つが「進化」。「キリンの首はなぜ長い?それは高いところの葉を食べるため」というQ&Aでお馴染みだが、これはキリンが「高いところの葉を食べたいから首を伸ばそう」と意図したという意味ではない。この考え方に近い「用不用説」は今では否定されている。進化は合目的的なものではなく、自然選択によって特定の形質を持つ個体が生き残りかつ多くの子孫を残し、やがてその形質が種全体に固定されることだ。と、私が習った頃の生物の教科書には書いてあった。
「遺伝的浮動」という言葉も後に学んで知った。これは、どの個体が生き残り、繁殖できるかがまったくの偶然で決まるとしても、集団の中で特定の形質が占める割合は変動し、時に一つの形質だけの集団ができ得ると、数理モデルなどで示した概念だ。つまり、現在の人類の姿は、「自然選択説」が言うような「どういう人間がサバイバル能力に優れていたり異性にモテて子孫を残せたか」の結果とは限らず、生き残りや繁殖など「時の運」だった結果生じた無意味な偏りの可能性もある。今後だって、人類が電信柱にそっくりになるだとか、説明し難い方向に進化しかねないということでもある。
「中立進化説」では、特に生存に有利とも不利ともいえない分子レベルの進化を決定する主な要因はこの遺伝的浮動とされるらしい。
いずれにせよ、目的に沿って進化するわけではないということがポイントだ。
本当に木の枝そっくりの虫を見ると「いやウソだろう、わざとやってるだろう」とつい思うが、違うらしい。
「ファッションの流行」はもちろん厳密には「進化」ではないが、人間社会の個人への要請を反映し、古いものを肥やしに生まれ出て、時に偶然に左右されて興隆・衰退するものだ。生物進化によく似た長期変化をし得るし、その方向が「擬態」と似ることもあるだろう。
長くなったが、では「虫に似ている」ことで人は得をするのか、損をするのか。
素直に考えれば損だろう。生活に入り込む虫は嫌われる。虫除け、防虫剤、殺虫剤などの売り場を見ると、この世はこうまで虫への殺意に満ちているかと怖くなるほどだ。
ゆえにこの流行、「虫っぽくしよう」と意図したものではないと思う。そこが「擬態」と言った理由なのだ。
ファッションは大抵意識的なものだ。カッコよく、きれいに、動きやすく、着心地良く、などの目的がある。着るものにこだわらないという人だってじゃあ十二単を着て出かけろと言われたら大抵断るだろう。だが、服が持つのは「カッコいいか」「カッコ悪いか」など目に入る要素ばかりではない。例えば「酸性かアルカリ性か」などを気にする人は少ない。「虫っぽいかどうか」はそうした、スルーされやすい要素なのではないか。みんな、「虫っぽいかとかは意識しなかったけどカッコいいと思った」だの「虫は関係なく着心地が良くて色が好き」だのの理由で虫ファッションを選択しているのだ。
そして「虫への擬態」が拡大した原因は、実は意外と「虫に似ていても得もしないし損もしない」ゆえにたまたま流行が拡大している(中立説の立場)、または「虫に似ていることで何か得をする」状況が既に今の社会にある(自然選択説の立場)ということになる。
「虫に似ているのは得でも損でもない」ならば、世の中の人はさほど虫を嫌っていないということで、虫にとっては福音だろうか。だが、思ったほど虫に激しい嫌悪を示さない人が多いと、人口増・食糧難が進むこの先の世界で、抵抗なく虫が食料にされるかもしれず、虫の存亡に関わる大問題とも言える。ウナギやマグロの例を引くまでもなく、人間に目をつけられてろくなことはない。
「虫に似ていると得をする」ならば、これまたもっと意外な話だ。どんな種類の得があり得るか考えてみた。虫嫌いの宇宙人が地球を侵略中で、見つけた人間は片っ端からムシャムシャ食べてしまうが、虫に似ていると嫌いなので食べないだとか、そんな凶事が進行しているのだろうか。
もしくは、虫好きな人というのは皆ありがたく不思議な力を持っていて、虫好きな人に好感を持たれるとその恩恵にあずかれたりするのだろうか。どうも漠然としているが、虫愛づる姫君や香川照之さんを思い浮かべると、不思議な力のひとつくらいは持っていそうで説得力を感じなくもない。
どちらにしても、「虫けらのよう」と表現されるように、取るに足らないもの、いても目に入らないもの、目に入っても黙って殺してしまえばいいもの、と扱われがちな「虫」を、人類は意識に上らせる前にファッションによる応答で捉えている、それが虫への擬態現象ではないかと妄想してみた次第。
虫を侮るな。あと、本当に虫に似た格好多いんだから。試しにそのつもりで見てみてほしい。
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