次々窓を開く不思議なからくり箱:映画『雪子さんの足音』

「雪子さんの足音」イメージ illustration by Ukyo SAITO ©斎藤雨梟

映画『雪子さんの足音』を観た

先日、『雪子さんの足音』という映画(浜野佐知監督)を観て面白かったので今日はそのことを。

この映画は小説『雪子さんの足音』(木村紅美著)を原作としている。

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主人公・湯佐薫は新聞で、学生だった20年前に一時暮らしたアパートの大家である川島雪子が熱中症で孤独死したと知り、気になってそのアパート「月光荘」を訪問する。道中見るのは「雪子さん」を悼むかつての下宿人たちのネット上のコメント、「よくご飯を食べさせてくれた」「病気の時に差し入れをして優しく励ましてくれた」などなど。湯佐はかつて、雪子さんの親切に息が詰まり、逃げるように引っ越したきりになっていた。当時すでに随分なおばあさんに見えた雪子さんと、若い女性の下宿人・小野田さんの二人による、次第に過剰になる親切と干渉を、あれは何だったのだろうと湯佐は回想する。

「恐怖」の一種だろうか、だがとても一言にはできない、得体の知れないざわつきが胸に残る小説だった。映像化するのに「得体の知れなさ」をそのままとはいかないだろうから、「恐怖」を増幅した映像になっているのではとドキドキした。

監督:浜野佐知 出演:吉行和子 菜葉菜 寛一郎 ©︎2019 株式会社旦々舎

観てみると、小説の世界を再現しつつ、さらに得体の知れない何かが描かれた、奇妙におかしく、美しい映画だった。

まず、舞台の「月光荘」が原作のイメージと違って驚く。原作では高円寺のボロアパートなのだが、映画ではどこかの地方都市の、どう見ても文化財クラスの美しい洋館なのだ。実際、ロケ地は「旧エンバーソン邸」という静岡市の指定有形文化財。平凡な大学生の下宿先とは見えず最初は違和感があったが、雪子さん(吉行和子)を見れば、これでいいのだと納得してしまう。

「『とんでもないバーサンの役が演りたい』という吉行和子さんからのメッセージに応えたくて、吉行さんを撮りたくてこの映画を作った」とは浜野佐知監督の言。老女といえば、いい具合に枯れた知恵袋的存在か「可愛いおばあちゃん」か、嫌な具合に枯れた「意地悪ばあさん」かというステレオタイプにしか描かれないが、もっと生々しい人間としての老女を描きたい、とも。

その言葉に一つも嘘はなく、雪子さんは年を経てこその多層的な内面を持つ人間として描かれる。だが、輝くばかりの銀髪、凝ったレースのブラウスなどに身を包む雪子さんは、どうにも美しすぎてごく普通の老女としては現実味がない。若いとか色気があるとかという形容(そう評しても間違ってはいないが)を超えて異次元に美しいのだから、由緒ありげな洋館の中にいてこそかえって「こういう人もいるかもしれない」と思わせて、ある種ファンタジックな世界へのハードルを低くしている。

雪子さんとは一体何者だったのか、はっきりした落ちはつかず、「何だったのだろう」という学生時代の湯佐のモヤモヤを追体験する映画と言ってもいい。ただ終盤、モヤモヤしていたものが残酷なほど素早く戻らない過去と同化し、湯佐の中の埋められない欠落が別の次元に昇ってゆく様子だけが、目に見えたように鮮やかだった。

映画パンフレットに寄稿された吉行和子さんの文章の最後に、「どんな人に観て貰いたいか、と聞かれれば、どなたにでも垣根を超えて観に来て下さい」とある。

あえてこう書いた意図はわかる気がする。「**に悩んでいる人に」だとか「女性におすすめ」だとかはぴったり来ない。わかりやすいカタルシスや涙など、求めるものがあまりに明確な人には向かないと思われる一方、そういう人こそ試しに観てはどうかとすすめたい。センセーショナルでどぎついエピソードでトラウマを残すタイプの「モヤモヤ映画」ではなく、未知の魅力あるものや人に出会い、その複雑な多面を垣間見た時のリアルなモヤモヤに限りなく似た美しい「モヤモヤ映画」なのだから、初心者にだって優しいモヤモヤだ。もちろんモヤモヤ上等! という方は夏の虫のように映画館に飛び込んだらいいと思う。

2019年6月28日まで、横浜シネマジャック&ベティ で上映され、その後京都、大阪、神戸と移る。詳しくは映画「雪子さんの足音」公式サイトで。

映像表現の魅力・『百合子、ダスヴィダーニャ』の宿題

さて浜野佐知監督の映画を観るのは2本目。その魅力についても書きたい。

映画とは監督一人で作るものではなく、関わった全ての人の技能とアイディアと奇跡的偶然で作られるもの、らしいと、映画製作の話を聞いたり読んだりするたび知らされるので、監督名だけで映画を語るのは実は無礼でトンチンカンな行為なのか、映画に明るくないだけに度々不安になる。だが、別の作品との共通点を書きたいという意図でもあり、やはり代表責任者である監督の作品という書き方をすることにする。

以前観たのは『百合子、ダスヴィダーニャ』(2011年)で、実は非常に心に残ったもののあまりにモヤモヤして今に至っても消化できず、観たことをこれまで人に言いすらしなかった。

概要ならば説明できる。ロシア文学者・湯浅芳子と作家・宮本百合子の若き日の出会いと二人が交わした愛、やがて来る別れへの予感を描いた作品だ。題材も新鮮だし、キャストも全部良かった。

ではモヤモヤとは何か? ストーリーが明確な落ちやメッセージに帰着しないという意味ではなく、それ以前に映像表現が独特で驚いたのだ。

良い映画とは「映像と音」の表現ならではのダイナミックさ、脳にダイレクトに響く複合的効果を見た瞬間に感じさせるものと思っていた。内容の好み以前に、良くできた映画とそうでない映画があり、そのふるいにかけて残ったものこそ内容の良し悪しを語る価値があるというように。『百合子、ダスヴィダーニャ』は私が「良くできた」と分類してきたどの映画とも違っていた。そこから外れたものは、これまでは例外なく私にとって「つまらない映画」だったのだから大いに混乱した。

何度も言うが内容や扱っているテーマ以前の問題だ。

ワンシーンの中や、シーンとシーンのあいだの「間」が独特で、画面は濃密で色鮮やか。セリフはどれも短く明確で聞き取りやすく、そのシーンや発した人物を明快に象徴したものになっている。独特といっても、一般に想像される「斬新な映像」とは別のベクトルで、「静的」「説明的」と言うことさえでき、映画というより不思議な紙芝居を見ている気分になる。

こう書くとどう考えてもけなしていると見えるだろう。私自身、この映画を教えてくれた友人のことが好きで、彼女の感性に信頼を置いているから正のバイアスをかけてしまっているけれど、もしかしてつまらん映画なのでは? と考えてみたりもした。映画の良し悪しなど主観的な好みの問題、など重々承知の上で、それでもモヤモヤする独特さなのだ。

だが心に残った強い印象は、時が経つほど鮮やかになる。「不思議な紙芝居」と表現したが、後になると、映像でも静止画でもなく、見る角度に応じてちょっとだけ動いて見える絵画のように思い出され、抗し難い魅力がある。

『雪子さんの足音』もまた不思議な紙芝居のようでも、からくり箱を覗いているようでもある。滑らかに繋がる映像のシークエンスというより、シーンごとに新しい窓が開く感じだ。ドールハウス型のからくり小箱がいくつも並んでいる。順次窓から覗けば世にも精巧な人形たちがポーズを取っている。しかししばらく見ていると、観客の目を盗んで人形たちが動くところを目撃してしまうのだ。ゆったりした魔法の時間をそっと窃視する、そんな緊張感がある。

といってもこれは私の感じ方で、類似した作風の少ないものこそ見る人の中に広げる感覚のバリエーションは広いだろう。何だそれは、と興味を持たれた方はぜひ実際に観てみてほしい。

今回の映画の前後に思いがけず浜野監督のお話を聞く機会があったおかげで、ふと、あれほど『百合子、ダスヴィダーニャ』にモヤモヤした理由の一つがわかった気がした。というのも、鑑賞後、浜野佐知監督のインタビューなどを見つけるたび、「おっ」と思い目を通してきたが、浜野監督は自作を非常に明確な言葉で語るのだ。今作での例が、上述の「老女をきちんと人間として描きたい」というもの。そのメッセージは強く勇ましく、情熱的。そのイメージに引きずられると、映画にあんなモヤモヤした魔法が隠されているとは思いもよらず、そこに余計幻惑される。見たことのない大掛かりな「ギャップ萌え」だ。監督は嘘などついていない。だが騙されてはいけない。いや騙されるのも一興なのか。

もう一つの理由に、たまたま尾崎翠「『第七官界彷徨』の構図その他」という文章を読み返していて思い当たった。尾崎翠は、名作『第七官界彷徨』執筆にあたり、場面場面が駅のように表された、鉄道地図に似た設計図を紙が真っ黒になるくらい描き込んだとある。あとは製図の通りを頭に浮かべ書くだけだと。

ただペンをとった後で困ることは、場面場面はすでに一つの絵画として頭の中に描かれているのにそれを言葉で書こうとするとき言葉の洪水に出逢ったり、言葉の貧困に陥ったりすることです。言葉はつねに文学の強敵だと思います。

(尾崎翠「『第七官界彷徨』の構図その他」 「尾崎翠集成(上)」ちくま文庫より)

そうだった、浜野佐知監督はあの『第七官界彷徨』と作者尾崎翠の人生を映画化した人ではないか。あの作品を映像に、と、普通ならば考えつかないことを考え実行するからには、監督自身が言うように「知られざる尾崎翠の後半生に別の光を当てたかった」だけのはずはない。

鉄道地図の中のいくつもの「駅」というイメージは、『百合子、ダスヴィダーニャ』『雪子さんの足音』の映画の場面場面の不思議な「間」の印象にもよく合致する。小説で他に類のない独自の世界を築いた尾崎翠は孤独だっただろう。浜野監督もきっと、「良い映画」を志して映画のために映画を撮っているわけではない。頭の中に描かれた絵画を他の誰にもできない方法で表現するという志にも作品世界にも、尾崎翠と共鳴するものがあったとしておかしくない。

言葉がつねに文学の強敵だと尾崎翠が書いたのと同様、「良い映画的表現はつねに映画の強敵」なのだろう。映像ならではの脳に直接訴える効率性を安易に取らず、五感と知とを公平に並列して使わせるような、一見迂遠なやり方で表現したのがあの映像の魅力かもしれない。私はそんなふうに今回、一応の納得を得た。

浜野佐知監督『第七官界彷徨 尾崎翠を探して』(1998) はいつか観るだろうが、ものには機というものがある。長く温めすぎてすっかり熟成した興味にふさわしい「機」がいつ来るのか、不安にはなるが、必ず観たい。

雪子さんの残した、永遠の欠落

終わりに、多少だが内容に踏み込んだことを。(映画未見の方はご注意ください)

物語に、主人公の「特異な性質」が描写されるタイプと、凡庸な主人公の「特異な経験」が描写されるタイプとがあるとしたら、原作小説は後者だ。

湯佐は月光荘で「特異な」経験をし、そこから帰還したと思っている。湯佐自身が月光荘前後で決定的に変化してしまったことに、読者は気づくが本人は無自覚、「変な場所に行き、どうにか帰ってきた」意識でいる。

だが映画版の湯佐(寛一郎)は少しだけ自覚的で、雪子さん(吉行和子)との出会いに捧げてしまい永遠に失った何かを彼が思い出す物語という趣きになっている。作中で雪子さんと小野田さん(菜葉菜)はファンタジックな世界の住人、湯佐はどちらかというと現実担当ではあるのだが、湯佐自身が雪子さんの残したその欠落を愛おしむかのような優しく上品な表情が、物語を「主人公にも特異な点がある」タイプに変えていて、それゆえ原作になかったラストシーンが美しく際立っている。

と私は感じたが、原作と映画を両方楽しんだ人の話をいろいろ聞いてみたいものだ。

原作でも映画でも湯佐は、小野田さんもまた何かを永遠に「失った」側だと思っている。見ている方も、長く住む住人の存在を示唆する若い下宿人のセリフなどに、亡霊のようになった小野田さんが登場するのではないかとハラハラするのだ。雪子さんは軽重の差はあれ多くの下宿人を「キャッチ・アンド・リリース」してきたようだ。だがリリースされ切らず、また何かを失いもしただろうが確実に「得た」のが小野田さんだと観客には感じさせる場面が用意されている。それを一瞬の映像で提示する鮮やかさは、普通の意味で「映画ならでは」と感じて面白かった。

小野田さんを演じた菜葉菜さんは映画やドラマで今、大活躍している方らしく、『百合子、ダスヴィターニャ』の湯浅芳子も素晴らしかった。複雑な知性と頑固な性格の持ち主ながら百合子に対して純粋で不器用な態度、男物のような地味な着物をさっぱりと着た、清冽で抑制的な色香など、「動く絵画」としてくっきり心に残っている。ガラリと変わった本作の小野田さん役もとても良かった。

さて本当の最後に「金魚」の話だ。ある重要なメタファーとして映画には大きな金魚が出てくるが、これは原作にはなく、脚本家の山崎邦紀さんのアイディアらしい。

「以前の紅美さんの作品に武蔵野の河童が出てきたことがあったが、わたしもまた人間以外のものに対する愛着は深い。脚本の最終段階で金魚を加え、浜野監督は最初、鼻で笑って相手にしなかったが、周囲の反応もあって渋々了承した。しかし、そのせいで私は撮影現場で金魚係となり、そして金魚が次々に死んで窮地に陥るのだが、この話は長くなるし、金魚の運命に想いを馳せる人などごく少数だろう」

(山崎邦紀「プロダクションノートに代えて、現実や実体の向こうに顕われる霊的美しさ」 映画『雪子さんの足音』パンフレットより)

これだけであれこれ妄想させる魅惑的な文章だ。河童が出てくる木村紅美さんの小説とはどれなのか、それもぜひ読んでみたいし、監督に立ち向かった結果なぜか金魚に翻弄される脚本家なんて、そのまま短編小説になりそうな面白さ。映画というのは本当に見えないところにたくさんの物語を秘めているのだと思う。

こう書くと図らずも私が少数派だという表明となり、この映画を勧める本稿の大勢の人への説得力を減ずるかもしれないが、金魚の運命だって気になってしかたがないではないか。

ページトップにあるのは映画をイメージして描いた絵だが、やはり金魚になってしまった。


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