絵本の家 小松崎敬子社長インタビュー第1回

12月の社長インタビューは「絵本の家」小松崎敬子社長のご登場です。海外絵本とキャラクターグッズの輸入卸を中核に、出版やオリジナル商品開発もされています。第1回は小松崎社長が絵本の家設立に参加するまでのお話をうかがいます。


洋書絵本と出会うまで
株式会社絵本の家 小松崎敬子社長

小松崎敬子社長

目白駅からずっと右側に学習院大学を見ながら歩いてまいりました。学習院は小松崎社長の母校なんですね?

「はい。大学ではテニス部でした。同期が10人いて、そのうち就職したのが2人だけ。あとはきちんと結婚なさるか花嫁修行。そんな時代でした。
私はどちらからも外れておりまして、卒業後何をするでもなくうちにいたんですが、だんだん具合が悪くなってきて。目標がないのがよくなかったんでしょうね。
あわてて大学の学生課に行ったら、中途半端な時期だから求人が1社しかない。選択の余地なし。それが『赤ちゃんとママ社』でした。

小山書店はご存知かしら?『チャタレイ事件』(注1)で有名な文芸出版社です。裁判に負けて小山書店をたたんだ小山久二郎社長がのちに立ち上げたのが赤ちゃんとママ社でした。

営業実務、事務などやっていたのですが、半年しかいなかったんです。今思えば恥ずかしい。無責任な勝手な娘で、今の若い娘と変わりません。

河出書房の編集者だった知人から、長沼弘毅さんの秘書をやらないかとお話いただいてそちらへ移りました。知人は長沼先生の『鬼人宇野浩二』という本の担当者だったんです。
長沼弘毅さんは元大蔵次官で、退官後は随筆家、翻訳家として活躍されていました。シャーロキアン(シャーロック・ホームズの研究家)としても著名な方でしたね。

秘書の仕事が何かというと、身の回りのこと全般。先生のパイプ磨きとか(笑)。
大きな本棚にズラリと洋書が並んだお部屋で、執筆中の先生から「あの本出して」と言われるとさっと抜いてくる。場所を覚えてなきゃいけないの。
明治生れの男らしい筋の通った紳士でしたね。
ここには3年半いて、よくもったと言われました。

それからどうしたかしら。そう、「テニス新聞」の記者をちょっとだけやりました。
ここは右翼の社長さんで、銀座の外れに小さな事務所がありました。取材行って記事書いて。でもこのとき、書くのは得意じゃないなと感じました。訓練したこともありませんでしたから。

そのあとが「ほるぷ」。当時のほるぷは本の販売会社で、販売員が何千人もいる大きな会社でした。どんどん国が成長していく時代に、百科事典や児童書のセット売りで急成長した会社です。
大学テニス部の先輩に手伝ってくれと言われて入ったのが海外事業部。
ここで絵本が出てくるんです。海外の絵本から日本で紹介したいものを選び、セットにして解説書をつけるセクションでした。
しばらくして、ほるぷの先輩たち4名が独立して始めたのが絵本の家で、昭和59年のことでした」

海外絵本と出会い、絵本の家設立に参加した小松崎社長。その後思わぬことから社長の重責を引き受けることになります。12日(月)更新の第2回をどうぞお楽しみに!

(※注1 1950年代、D.H.ローレンスの小説『チャタレイ夫人の恋人』を訳した伊藤整と版元小山書店社長小山久二郎が、わいせつ物頒布罪に問われた事件。裁判ではわいせつと表現の自由の関係が争われた)

☆     ☆     ☆     ☆

インタビューは目白にある絵本の家直営店で行われました。目白駅から目白通りを8分ほど歩いていくと右側に絵本いっぱいのショーウィンドウが見えてきます。

絵本の家 エントランス

店内ではクリスマスフェアの真っ最中。プレゼント選びにぜひどうぞ!

絵本の家クリスマスフェア

絵本の家直営店「Book&Cafe Ehon House


小松崎敬子(こまつざきけいこ)
昭和23年、母の実家の逗子で生まれる。4人兄弟の3番目。
2歳の時に世田谷区祖師谷に戻る。
祖師谷小学校、鷗友学園女子中・高等学校、学習院大学経済学部卒業後、
赤ちゃんとママ社、長沼弘毅氏の秘書を経て、ほるぷ海外事業部で海外絵本に携わる。
53年、結婚。
ほるぷ時代に上智社会福祉専門学校に通いカウンセラーを目指すが、絵本の仕事を続ける。
59年、長女出産。絵本の家の設立に参加。平成1年、代表取締役となり現在に至る。


スポンサーリンク

フォローする