講談社サイエンティフィク 矢吹俊吉社長第2回

講談社サイエンティフィクの矢吹俊吉社長インタビュー第2回です。矢吹社長は編集志望ではありませんでした。校閲志望で、希望通り校閲で講談社に採用されたのですが、思わぬ異動が待っています。月刊誌「現代」の編集部で奮戦した日々のことをうかがいます。


ジャーナリズム誌の編集部に放りこまれて
矢吹俊吉社長 講談社野間道場

講談社野間道場にて

「講談社には校閲採用で入りました。派手なこと目立つこと嫌いなんですよ。校閲、縁の下の力持ちみたいでいいなあと。

ところが4年後月刊誌「現代」の編集部に異動になります。嫌で嫌で(笑)。人見知りだし編集など向くわけがないと思っていました。(注1)

ジャーナリズム誌の編集部って、誰だかわからないようなヤカラがいっぱい出入りしてるんですよ。
愚鈍な私が魑魅魍魎の世界に放りこまれて、さあ企画出せって言われても何も出てこないです。

早々に殺人事件の取材が入りました。犯人のお母さんのコメントを取らなきゃいけない。何時間も待ってようやく会えたら、「今は何も言えない。どうかそっとしておいてくれ」って泣かれて。
そりゃあそうだと思いました。それ以上聞けないからまっすぐ帰ってきたら「おまえ何やってんだ」って怒られました。

本当に嫌で、2か月くらいうじうじ悩んでました。
しかしこのままでは社会人としてやっていけない。どうすれば仕事できるだろうかと考えて、やっと思いついたのが、本来の自分と仕事する自分を切り離して考えることでした。

取材の電話するとき、今から電話するおまえは本当のおまえではない。現代編集部の名刺が電話するんだ。そう思うことにしたんです。

殺人犯のお母さんに話を聞くとすれば、誠意をこめて手紙を書いて「これは決して興味本位ではない」とめんめんと訴える。もう長々と書く。名刺が手紙を書くんです。

なんでもそう。筆者に、あなたと仕事したいんです、どうしてもあなたでなければとお願いする。全部が本気ではないですよ。とにかく企画がほしいんだから。覚めてる部分もある。でも名刺がしゃべってるんですね」

矢吹俊吉社長 ニューヨーク出張中

ニューヨーク出張中

「ビジネス本にはよく「名刺で仕事するな」って書いてあります。私は逆です。名刺で仕事してきたし、後輩たちにもそう言ってきました。

講談社に1000人いても講談社の名刺より優秀な奴まずいないです。編集長よりも編集長の名刺の方が世間的に絶対優秀です。
勘違いしてはいけない。自分のひらめきなんてたいしたことないんです。どんな斬新に見えるアイディアもだいたい過去に誰かがやっている。天才なんてそんなにいるわけないでしょう?

だから新人に言うんです。「君らは間違いなく凡庸である。それでも、凡庸でもやっていける方法がある。決して手を抜かないことだ」
できることは全部やる。そして経験のひとつひとつから学んでいく。そうすればあるところまでは行ける。

私がそうです。ただただ愚直にやっていたら、凡庸でも最低限の編集者にはなれた気がしています」

(注1「現代」(のち「月刊現代」)は1966年~2008年講談社から発行されていた月刊誌)


矢吹俊吉(やぶきしゅんきち)
1954年、茨城県土浦市生まれ。12歳のとき初めて竹刀を握り、中学、高校、大学と剣道三昧ですごす。1977年、講談社入社。校閲局を経て月刊「現代」編集部に異動。1992年~96年、同誌編集長。その後、現代新書、ノンフィクション書籍の出版部長、ランダムハウス講談社編集局長、講談社学芸局長を経て、2012年より現職。1994年、ルポライター小林篤さんの誘いにより将棋を指し始め、2003年、将棋のご縁で「ホテル暴風雨」オーナーと出会う。


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